全国どの地方にも、その土地に生き続けてきた方言があった筈なのだが、農村、山村が次第に都市化していくのと、テレビ・ラジオの普及によって、それぞれの土地の棄て難い方言が忘れ去られてゆく運命にある。寂しいかぎりである。
常々そんなことを思っていた私が、平成三年から二年間、町内会の副会長として地域活動のお手伝いをさせてもらうことになったのを機会に、隔月で町内報を発行することになり、紙上に「わが町の方言」と題して、私たちの町で使われていた言葉を連載したところ、予想外の好評を得た。
そのことが朝日新聞に大きく報じられ、続いてNHKテレビで放映されると、江戸川区内のローカル新聞が、これまた、鬼の首でも取ったように書きたてた。
面白半分で手がけた方言収集なのに、こうなると、私も、ひっこみがつかなくなってしまった。
修士論文のテーマとして方言を研究しているが、現在、行き詰まっているというママさん大学院生が、マスコミの報道で私のことを知ったと訪ねてきた。尤も、同じようなことで訪ねて来た大学生が他にも二人ほど居たが、ママさん大学院生は特に熱心で、以来一年間、週一回来宅し、昼食時間を除いて、〈ミッチリイッペ(脇目もふらず、一所懸命)〉取材していった。
大学院生を相手にしていると、先方は取材しているのだが、私は教授にでもなった気になって、おつきあいした。
そこには、わが町の方言に、いつかは学問の光が当たるかも知れないという楽しみがあったことも事実である。
その後もテレビ局や新聞社や地域企業の広報紙が、一年に三回ほどの割合で取材に訪れた。
この様子をみた友人・知人から
「せっかく集めた方言を、このまま眠らせないで一冊にまとめてみないか」
と奨められた。元来、煽(おだ)てに乗りやすい私は、ついその気になって、平成八年一月に「わが町葛西の方言」と題した小冊子を自費出版して、知人や地域の公共機関に寄贈した。
これがまた新聞、テレビで何回となく報じられ、同じ職場で働いた人や、全く面識の無い人から、次々に「頒けてもらいたい」との申し入れがあり、遂に、手元に残るものが無くなってしまった。
平成十年、町会長に就任し以後四年間、町内報を発行することになり、新しく発掘した葛西の方言を連載した。そして、前回の小冊子に手を加え、改めて昔日の葛西を偲ぼうというのが今回の趣旨である。
しかし、私には全く言語学の素養が無い。ただ、「こんなことを喋っていたなぁ」という程度の言葉を羅列するだけしかできない。
言葉を文字にして羅列するだけでは方言の研究にはならない。言葉には発音が大切であり、同じ言葉でも発音によって違う意味になってしまうことが多いからである。
言語学者の金田一春彦先生も、若い頃、葛西の方言の研究にとりかかったが、発音の仕組みがどうしても解けなくて、お手あげになったと聞いたことがある。
そういうことからすれば、発音を表現する方法も知らない私の葛西弁収集は半端(はんぱ)な努力でしかないことになる。
でも、祖先が使っていた葛西弁、そして私たちの年代の者が今でも使っている葛西弁。
もともと、半農半漁の寒村で、海や田畑で大声をあげて話していたのだから、乱暴で、お世辞にも上品とは言えない言葉だが、ユニークでなぜか温かみさえ感じられる言葉が愛(いと)おしくてならない。
こうした葛西弁も近い将来には消えてゆく運命にあるようだ。なぜなら、先祖代々、葛西に住む家の人でも、六十五歳くらいを境にしてそれ以下の人は殆ど喋らない。喋らないのではなく葛西弁を知らないのである。
「言葉は生きもの」と言うから、方言が消えてゆくのも時の流れだろうが、せめて、この小冊子に収録した方言くらいは、なんとか残しておくことによって、葛西に住んだ先祖が生活の折々に使っていた言葉から、昔を偲ぶ手助けにしたいと思うのだが・・・・。
平成十四年八月
彦田信義