江戸川区の葛西地区は面積としては昔からかなり広かった。その広い中に〈イシャサマ〉(お医者さん)は少なく、開業医の医院が三院あるだけだった。
住民は風邪をひいたくらいな軽い病気ではお医者さんに診てもらうなんてことはない。買い薬ならいい方で、越中富山の置き薬でも飲むのが多かったようである。
現在は人口が激増したこともあって、病院の数も増えた。それでも病院・医院と名の付くところは、患者で〈ノットゲして 一覧248〉(大混雑して)いる。近頃は〈タイソックセぇ 一覧194〉(病気を大袈裟に考える)人が多くなったのか、健康保険で医療費が安いからなのだろうか。
今度は、友人たちに五・六十年前の住民と医療関係について語ってもらった。
「オラァ、学校へあがって、いくらもしねぇ頃、〈クサバッコ 一覧086〉(草の生えている所)で〈ハネコンコン 一覧261〉(片足跳び)していて〈ツノッペんなった 一覧212〉(先の尖った)竹を踏んづけちゃって、足ぃ〈キットし 一覧073〉(突き刺し)ちゃったことんあってょ、チャンが〈ヤベ〉(来い)って自転車へ乗せらぃて医者(医院)へ行ったっけん、医者の玄関のメエで〈ジブクん 一覧141〉(イヤがる)し、自転車から降ろせば痛てぇ方の足を爪先だって〈アテジャリ 一覧008〉(あとずさり)しちゃァから、治療してもらぁまで〈シヤマシた 一覧142〉(手におえずに骨をおった)ってチャンがこぼしてたのを〈オベーテん〉(憶えている)ね」
「今ぁ、医者もニコニコしてんけど、その時分は、医者ってえぇと、なんとなく〈コソッペー 一覧113〉(うちとけくい)人って感じだった」
「オラぁ、十四・五んなってからだけど〈ヨーん悪りい 一覧309〉(鮮度の悪い)鯖ぁ食って〈シデェ〉(ひどい)蕁麻疹になっちゃったことんあってよ、〈カイくって〉(痒くて)アオムケんなっても〈ハランベ 一覧262〉(腹ばい)んなっても、〈ヨップテ 一覧310〉(一晩中)寝らんなかった。医者へ行ったらカルシュウム注射ってのを射つだってから、見たら注射器ん〈ワルブテェ 一覧313〉(うんと太い)だんべ。学校でチブスの予防注射ぐれぇしかやったことんねぇだから、あの太ぇ注射器見たじゃ〈ドッキヨ抜いた 一覧228-2〉(肝を潰した)よ」
「オラン弟ん、四ツ五ツん時分だったかなぁ、冷蔵庫なんか無ぇ頃だから、悪りぃもんでも食っただんべ、ピーピーで〈チョウツバん 一覧203〉(便所が)間にあァねで、〈シビッちゃ 一覧147〉(便を漏らす)だ。それん何回もだから、〈シメェにゃ〉(しまいには)〈シミシ 一覧148〉(おむつ)〈オッツケ〉(着ける)たりして、医者に来てもらっただよ。〈シナミん 一覧149-1〉(天候が)悪りぃ時だったけんね。兄貴のオラぁ〈チャッポ 一覧204〉(身長が低い)だけど、弟ヤロぁその時分から年の割には〈ジクネん 一覧150〉(体格が)良かっただよ。それん、シデぇ腹っくだしだから〈ソーソーとして 一覧184〉(元気が無く)〈ヘゲーネェ顔 一覧282〉(しょげた顔)してんだよ。親たちゃ、悪りぃ病気じゃねぇかって〈シンペん〉(心配が)〈エッカかったんべ〉(大きかったでしょう)」
「四ツや五ツのこどもじゃ、いくらジクネんいいったって〈ガケ 一覧065〉(体力)ん無ぇからノォ。〈ソンデ〉(それで)どうしただか?」
「どうだったのかねぇ。オベぇてねぇけど、じきに治った〈ミテ 一覧293-2〉(みたい)だったね」
「終戦後、あそこの(あの家の)〈オジボー 一覧042〉(二男・三男)ん交通事故で死んだっけね」
「オラがんも〈シッカカリ 一覧153〉(親戚関係)んなってんだけど、まぁだ〈このマアリじゃ〉(この近辺では)オートバイなんか乗んもんが無かっただに、珍しもん好きだからオートバイ買って〈ウナラカシて 一覧023-2〉(勢いよく走りまわって)ただよ。〈オンダラ 一覧043-2〉(俺たち)も危ねぇって思ってたら、夜、道路工事してんとけぇ〈ノタシアゲちゃって 一覧249〉(突っ込んじゃって)病院に担ぎ込まれただ。〈サタ 一覧119〉(知らせ)受けて行ってみただけど、その時分じゃ病院でも〈ホーゲーシんつかね 一覧283〉(手におえない)らしかった。顔ぉ見たら〈ケッツァん悪りぃ 一覧096〉(顔色や表情が悪い、容体が悪い)だよ。〈コッチモンにゃなんめぇ 一覧114〉(助かるまい)って思っちゃったもんね。事故やっちゃった時にサタされたからだけど、あれん死んじゃってから〈テンポコダシ 一覧221〉(だしぬけ)に言われたじゃ、もっとビックリしてたんべね」
「〈ハぁ 一覧255-2〉(もう)ずいぶんメェだけど、オラん〈オヤコ 一覧044〉(親戚)で、チャンコん、昼間〈ネブッたく〉(眠く)なったからって座敷ぃ〈ネッコロがって〉(寝転んで)〈キドコロ寝 一覧074〉(うたた寝)してたから風邪シイただってよ。普段から〈ネブッタ 一覧244〉(寝坊)だったからね。だんだん熱ん高くなってウチの者ん医者呼ぶべって言っただけど、頑固で〈フーテキん悪りぃ 一覧274〉(態度が悪い・ガラが悪い)から『すぐ治んだ。医者なんか呼んだって〈ゲーもねぇ 一覧097〉(無駄だ・なんにもならない)、〈ゼネぇウッチャん〉(お金を捨てる)ようなもんだって〈アグテー 一覧011〉(憎まれ口)んエッケぇだってよ。そんなことしてんうちに急性肺炎んなっちゃったからシャンネや。入院しただよ。『風邪ぐれぇ』って言って医者にも診てもらなかったのんいけなくって手遅れに近かったじゃねぇのか。〈死にハグレケェした 一覧160〉(危なく死ぬところだった)だってよ。〈エッケェ〉(大きな)病院で手当ん良かったから助かったけど、〈シニップ 一覧151〉(死ぬ運命)のもんなら死んじゃったべね」
「病院はエッケェとこんいいよ。オレん足ぃ〈シッチゲた 一覧146〉(捻挫した)のと他にも悪りぃとこんあって入院したことんあんだけど〈チャッケェ 一覧206〉(小さい)病院だから、病室ぁ、アッチん悪りぃもんもコッチん悪りぃもんも〈イッショクタ 一覧014〉(ごちゃ混ぜ)だもんね。健康保険が今んみてじゃなかったから、医者も看護婦もハッキリしててよ。ゼネん有んもんと無ぇもんじゃ〈アツケえん〉(扱いが)違ぁだよ。ゼネん無ぇもんは、なんだかんだって〈ゾンキに 一覧185〉(思いやりのない扱いに)されんだよね。そらぁ〈ゲンゴザラシ 一覧098〉(歴然として)だったよ。キョウビはそんなこたぁ無ぇべけんどね」
この人たちが入院したと言っている病院は、総て葛西から遠い所である。
地下鉄が葛西を走り始めたのが昭和四十四年で、それ以前の葛西は交通機関の極めて不便なことで有名だった。
東京の〈陸の孤島〉とさえ言われていたのだから、人口も少なく、従って入院設備のある病院など在るわけがなかった。病気で入院することなど、そう簡単ではなかったのである。