善養寺
所在地:江戸川区東小岩2丁目24番2号 … 地図を見る
開基・沿革・宗派
今から四八〇年余の昔、足利第十二代義晴公の治世中、大永七年(一五二七)、山城醍醐山の住僧であった頼澄法印(らいちょうほういん)が霊夢のお告げをかしこみ、一山の霊宝の不動明王を奉持して当地に下向(げこう)し一宇の堂を建立したのが、この寺の開基と伝えられています。ただし、史実としてはこの寺伝以前の永正六年(一五〇九)に出版された連歌師宗長(そうちょう)の紀行文「東路(あずまじ)のつと」に、宗長が善養寺に立ち寄ったことが記されています。江戸時代には徳川第三代家光公より十石の朱印領を賜り、末寺を統領する中本寺として法燈(ほうとう)を継いで今日にいたっています。現在は真言宗豊山派に属し、奈良県初瀬の長谷寺を総本山、東京都音羽の護国寺を大本山に仰ぎます。
今から四八〇年余の昔、足利第十二代義晴公の治世中、大永七年(一五二七)、山城醍醐山の住僧であった頼澄法印(らいちょうほういん)が霊夢のお告げをかしこみ、一山の霊宝の不動明王を奉持して当地に下向(げこう)し一宇の堂を建立したのが、この寺の開基と伝えられています。ただし、史実としてはこの寺伝以前の永正六年(一五〇九)に出版された連歌師宗長(そうちょう)の紀行文「東路(あずまじ)のつと」に、宗長が善養寺に立ち寄ったことが記されています。江戸時代には徳川第三代家光公より十石の朱印領を賜り、末寺を統領する中本寺として法燈(ほうとう)を継いで今日にいたっています。現在は真言宗豊山派に属し、奈良県初瀬の長谷寺を総本山、東京都音羽の護国寺を大本山に仰ぎます。
浅間山噴火の供養碑
天明三年(一七八三)七月六日(新暦八月三日)信州浅間山が大爆発を起こしました。噴出した火砕流は麓の村々を押し流し、多くの村人が犠牲になりました。その瓦礫とともに、吾妻川(あがつまがわ)~利根川~江戸川約二〇〇kmの流れに運ばれて、おびただしい遺体が当地の中州に漂着し、船の運航に差し支えるほどだったといいます。その痛ましい光景を見かねた小岩村の人々が、当寺の住職に供養を依頼しました。この碑はその十三回忌にあたる寛政七年に建立されたもので、昭和四十八年に東京都の文化財に指定されています。また、二百回忌にあたる昭和五十七年に「浅間山焼け供養碑和讃(わさん)」を建立し、被害者の供養をしています。
天明三年(一七八三)七月六日(新暦八月三日)信州浅間山が大爆発を起こしました。噴出した火砕流は麓の村々を押し流し、多くの村人が犠牲になりました。その瓦礫とともに、吾妻川(あがつまがわ)~利根川~江戸川約二〇〇kmの流れに運ばれて、おびただしい遺体が当地の中州に漂着し、船の運航に差し支えるほどだったといいます。その痛ましい光景を見かねた小岩村の人々が、当寺の住職に供養を依頼しました。この碑はその十三回忌にあたる寛政七年に建立されたもので、昭和四十八年に東京都の文化財に指定されています。また、二百回忌にあたる昭和五十七年に「浅間山焼け供養碑和讃(わさん)」を建立し、被害者の供養をしています。
星降(ほしくだ)り松(二世)
弘法大師が若き日に高知の室戸岬で『虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)』という修行をしたとき、最後の日に天から明星が降ってきて、面前で光り輝いたと伝えられています。善養寺九世住職の賢融(けんゆう)和尚がこの修行をしたところ、同じく最後の日に明星が降ってきて境内の老松に留まり、この光景を目の当たりにした人々が、以来その松を「星降りの松」と呼ぶようになったといわれています。善養寺の山号(さんごう)「星住山」はこの霊験に由来します。また、降ってきた明星は「星精舎利(せいせいしゃり)」として今に伝わり、境内の密厳宝塔(みつごんほうとう)にお奉りしています。樹齢六〇〇年、高さ三〇mを誇った一世は昭和十五年の台風によって枯れてしまいましたが、現在は昭和二十八年に植樹された二世が元気に育っています。
弘法大師が若き日に高知の室戸岬で『虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)』という修行をしたとき、最後の日に天から明星が降ってきて、面前で光り輝いたと伝えられています。善養寺九世住職の賢融(けんゆう)和尚がこの修行をしたところ、同じく最後の日に明星が降ってきて境内の老松に留まり、この光景を目の当たりにした人々が、以来その松を「星降りの松」と呼ぶようになったといわれています。善養寺の山号(さんごう)「星住山」はこの霊験に由来します。また、降ってきた明星は「星精舎利(せいせいしゃり)」として今に伝わり、境内の密厳宝塔(みつごんほうとう)にお奉りしています。樹齢六〇〇年、高さ三〇mを誇った一世は昭和十五年の台風によって枯れてしまいましたが、現在は昭和二十八年に植樹された二世が元気に育っています。
昔話「影向の石」
昔、小岩あたりを盗人があちらこちらの家に押し入り、荒らしまわったことがありました。
あるとき、善養寺の不動堂にも入って大事な仏具などを盗み出し、大きなふろしきをかついで境内の大きな松の木の下まできました。すると、どうしたことか、片方の足が敷石にすいついてどうしても離れなくなりました。
「おや。こまったぞ。どうしたんだろう。ウーン、はなれろ」
と、一生懸命に力をいれても、敷石にぴったりとついた足は離れません。
「あー、どうしよう。いくら頑張っても離れない。ぐずぐずしていると、つかまってしまう。こまった、こまった」
と、あわてていると、盗人の目の前に、右手に剣を持ち、左手になわ、炎を背にして、大きな目を開いて怒った顔をした「不動明王」が現れました。
お不動さんは、盗人の胸元に剣をつきつけ、
「自分ではたらかないで、よその人のものを盗むなど悪いことばかりしている。この剣で突きさし、命をちぢめてやるか。それとも、こんごは盗みなどはやめて、まじめにしっかりと働くか。どちらにするか」
と、言いました。さすがの盗人も、
「もう、これからは、決して悪いことはいたしません。どうか、命だけはお助け下さい」
と、涙を流してゆるしを願い、心からこれまでの罪の深さをさとったとたんに、足が敷石から離れ、お不動さんの姿もみえなくなりました。
松の根元に残っている四角い石は「影向の石」といって、そのときの盗人のわらじの足跡がついているといわれております。
昔、小岩あたりを盗人があちらこちらの家に押し入り、荒らしまわったことがありました。
あるとき、善養寺の不動堂にも入って大事な仏具などを盗み出し、大きなふろしきをかついで境内の大きな松の木の下まできました。すると、どうしたことか、片方の足が敷石にすいついてどうしても離れなくなりました。
「おや。こまったぞ。どうしたんだろう。ウーン、はなれろ」
と、一生懸命に力をいれても、敷石にぴったりとついた足は離れません。
「あー、どうしよう。いくら頑張っても離れない。ぐずぐずしていると、つかまってしまう。こまった、こまった」
と、あわてていると、盗人の目の前に、右手に剣を持ち、左手になわ、炎を背にして、大きな目を開いて怒った顔をした「不動明王」が現れました。
お不動さんは、盗人の胸元に剣をつきつけ、
「自分ではたらかないで、よその人のものを盗むなど悪いことばかりしている。この剣で突きさし、命をちぢめてやるか。それとも、こんごは盗みなどはやめて、まじめにしっかりと働くか。どちらにするか」
と、言いました。さすがの盗人も、
「もう、これからは、決して悪いことはいたしません。どうか、命だけはお助け下さい」
と、涙を流してゆるしを願い、心からこれまでの罪の深さをさとったとたんに、足が敷石から離れ、お不動さんの姿もみえなくなりました。
松の根元に残っている四角い石は「影向の石」といって、そのときの盗人のわらじの足跡がついているといわれております。