その後明治十九年山口県岩国地方から六十五戸、翌二十年には山口県萩藩士五十戸が漁川両岸に集団入植したのが嚆矢となり、明治二十六年には加越能開耕社が主掌して石川、富山両県から百余戸の集団移住があり、その前後より相次いで福井、富山の両県などからも島松地区を主に続々と縁故入植が続くなどして、急速に郷土恵庭の原型が形づくられたのであります。
しかしながら、先人開拓者の苦難は現在の私共の想像もなしえない程の厳しいものでありました。
入植の際には飢えと寒さのため餓死者を出した記録が残っており、身の丈に余る葦原に分け入り、鍬一丁で谷地坊主や大木の根木の掘り起しに油汗を流し、或いは又、しばれいもの団子で飢えをいやしながら昼なお暗き大森林の中に鉞(まさかり)一丁で気力をふりしぼって桂の大木にいどむなど文宇通りの難業であり、この血と汗との結晶こそがわが郷土恵庭の礎であります。
かくして、はや一世紀に近い歳月が流れ、当時の一寒村が一級町村となり、町となり、そして現在では道央都市圏の中核都市恵庭市として父祖から遺された文化遺産とすぐれた自然環境、恵まれた地理的条件を生かし未来への躍動的発展をめざして希望に満ちた営みが進められております。
この郷土恵庭を継承する先人苦闘のあゆみをつづり子孫に伝える義務と責任を痛感し、ここに恵庭市史を発刊いたしました。本史がいささかでも皆さんのご活用を得て郷土恵庭のまちづくりのよりどころになれば私にとって望外の喜びとするところであります。
本史の編集にあたっては編纂委員会委員の皆さんをはじめ執筆にあたられた郷土史家としてご造詣の深い渡辺、河野両先生の五か年に亘るご協力に対して深く感謝申しあげますと共に埋れゆく貴重な資料やご記憶談などを快くご提供下さいました方々に厚くお礼申し上げます。
市民各位のご一読を心から希いまして発刊のごあいさつといたします。
恵庭市長 浜垣 実