昭和四十七年度の北海道教育委員会の調査(内容詳細未公表、第三章第4表参照)によると、恵庭市内には遺物の出土地点又は遺跡の所在地点が九五か所もあるとされている。その他にも既に知られている遺物の出土地点や発掘調査済みの遺跡、新発見の遺跡などがあり、これらを加えると現在本市内には一〇〇数か所の遺物の出土地点又は遺跡を数えることができることになる。しかし、それらのうち遺物の出土地点については、二か所以上が一遺跡の範囲内に含まれる可能性を考えられる例が少なくないので、既述の一〇〇数か所より既発見遺跡の実数は減ずる。
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第1図 恵庭市内の遺跡所在地及び遺物の出土地点 |
1~95地点:北海道教育委員会『埋蔵文化財包蔵地一覧表』付図(昭和50年度末刊)による。 96~102地点,A~Z地点:本稿執筆のための遺物の出土地点仮名称。第三章に略説。100地点及びZ地点は本図外。97地点を除外。 なお,本図中の各地点はそれぞれの報告や情報提供にもとづくものであるが,別地点として示されている中には同一地点として良い例もあるものと思われる。 |
ところで、恵庭における遺跡や遺物が専門的な視野を伴った関心を寄せられるようになったのは、昭和の初期に至ってのことであるから、それからまだ半世紀ほどしか経ていない。しかしながら、北海道の考古学的研究はそのころの先駆者の活動を通じてこそ基礎を築かれた。そして、当時恵庭で発見された遺跡や遺物は数百年、数千年あるいはより以前にさかのぼる北海道の文化史を解明する重要な手掛かりとなり、また、その研究史の上で基礎的資料とされた。
なお、恵庭の遺跡や遺物に注目して、それらを専門的な見地から研究するきっかけをこしらえた最初の先駆者として、曾根原武保の名を上げることができる。