「本稿は数年来曾根原が恵庭村に於て時折調査した遺跡並に採集した遺物と、更に昨年茂漁川畔に於て古墳が発見されて以来後藤もそれに加わって、調査を続行して来た今日までの記載である。随って、これによってその悉皆が盡されているわけでは決してない。殊に竪穴住居跡に至っては、そこが耕作地であったり、或は植林地であったりなどして、未だ全く手を着けていない。外にも亦未調査の分が多い。これらを精細に調査することによって、尚多くの発見のあることは疑のないことであるが、一先づ備忘録を作って置いて、更に今後のものは何れ後日に報告を譲りたいと思ふ。」
また、同報告の内容は茂漁川附近の遺跡についてのもので、表面採集品の紹介、昭和七年の曾根原、後藤による古墳様墳墓(北海道式古墳とも呼ばれる)及び竪穴様墳墓(一部に名取武光調査分をも含む)の発掘調査報告、チャシ・コツの紹介などがもり込まれており、加えて、昭和六年調査の江別町兵村における古墳様墳墓群19 29 35の文化内容とこの地方におけるそれとの関連が問われている。
そして、昭和七年八月、茂漁川左岸段丘において蕨手刀・直刀・刀子などの鉄器類や土師器、須恵器の出土された同報告にみられる古墳様墳墓群は、江別町兵村における古墳様墳墓群とともに、その文化内容が特に本州における文化を思わせるものであっただけに、喜田貞吉、後藤守一ほか道外の研究者からも注目されることになった。さらにまた、そのような事情を通じて北海道内外の研究者間の考古学的意見の交換も密接となり、このことは北海道における考古学の基礎固めにとり大いにプラスとなった。
なお、既述の曾根原、後藤の報告が掲載された『考古学雑誌』同巻同号には、河野広道も昭和七年九月の茂漁における古墳様墳墓二基の発掘調査結果を発表している。
第2図 茂漁の古墳様墳墓から出土した鉄器類 昭和7年後藤壽一・曾根原武保発掘36 | 第3図 茂漁の古墳様墳墓及びチャシ・コツ中より 出土した土師器(2,3)と擦文式土器(1,4) 昭和7年後藤壽一・曾根原武保発掘36 |
第4図 茂漁の古墳様墳墓 昭和7年後藤壽一・曾根原武保発掘 第7号墳36 |
また、河野広道は昭和七年秋、江別町町村農場内(現北海道電力江別火力発電所所在地)において、恵庭村茂漁や江別町兵村におけると同類の古墳様墳墓群を発掘調査している。19
しかしながら、このような先駆的研究活動は、その後第二次世界大戦近くより同戦後しばらくに至る間、国民の歴史観に対する政府の思想的統制があったためや、個々人の諸事情などから発展的に続けられなかった。そして、戦後に至り、かなり日本の経済的復興がなされ、研究者の主体的な研究活動への強い意欲や余裕がとり戻されたり、土地開発の波が押し寄せて遺跡の発見率が急速に高まったりしたのに伴い考古学的研究活動は再燃された。やがて昭和三十年代半ばには日本に「考古学ブーム」までやってきた。その影響は北海道、ここ恵庭にも及んでいる。