なお、大場、石川によって昭和三十七年より三年間に亘って発掘調査された遺跡及びその発掘調査期間は次のとおりである。
1 柏木東遺跡 昭和三十七年七月二十三日―七月二十九日
2 西島松南D遺跡A地点 昭和三十七年七月二十三日―七月二十九日
3 下島松遺跡 昭和三十七年七月二十三日―七月二十九日
4 公園遺跡 昭和三十八年八月四日―八月十日
5 西島松南B遺跡 昭和三十八年八月四日―八月十日
6 西島松南D遺跡第1・第2・第3地点 昭和三十九年八月二十二日―八月二十八日
1 柏木東遺跡 昭和三十七年七月二十三日―七月二十九日
2 西島松南D遺跡A地点 昭和三十七年七月二十三日―七月二十九日
3 下島松遺跡 昭和三十七年七月二十三日―七月二十九日
4 公園遺跡 昭和三十八年八月四日―八月十日
5 西島松南B遺跡 昭和三十八年八月四日―八月十日
6 西島松南D遺跡第1・第2・第3地点 昭和三十九年八月二十二日―八月二十八日
また、これらの発掘調査や遺跡の確認調査が行われることになった経緯について、大場、石川は次のように記している。
われわれが今回本町の遺跡を調査することになった発端は、昭和三十六年、本町恵北中学生光永研一、植村潤らが、西島松地帯において土偶を発見したことがきっかけとなった。すなわち土偶並びに土器、石器は、同君らによって北海道大学の大場利夫の許に持参されて、その鑑定をえたのであるが、これらは縄文文化のものの中で、かなり特色ある資料であることが判明し、大場によって恵庭町教育委員会にもその旨が報告された。時を同じうして石川徹が浜益村より本町松園小学校に赴任したので、これを好機として同教育委員会の主催により、大場を招いて石川とともに町内に存在する遺跡の視察を行った。その結果を検討して、翌昭和三十七年度より三カ年継続によって町内各地に散在する遺跡の本格的調査が計画されるに至った。14
その後、昭和四十四年七月末より八月にかけて、藤本英夫、北海道開拓記念館職員、北海道教育委員会が、一九七二年冬季札幌オリンピックに間に合うように工事の進められた北海道縦貫自動車道路予定路線内における遺跡の分布調査に当たり、柏木川沿いの河岸段丘上で遺跡を発見、藤本英夫らがこの遺跡を昭和四十五年五月十五日から六月中旬にかけて発掘調査した。
なお、その調査報告は『柏木川―擦文時代・縄文時代晩期の墳墓と縄文時代中期の住居址(柏木川遺跡の墳墓と住居―北海道恵庭市における緊急調査)』とされ、昭和四十六年二月二十五日、北海道文化財保護協会から刊行されている。
また、昭和四十七年には北海道教育委員会がこの地方の遺物の分布調査を札幌大学石附喜三男らに依頼し、九五か所の遺物出土地を確認することができた。しかしながら、それらの地点については、二地点以上が一遺跡の範囲内に含まれる場合のあることや本来の位置から遺物が移動されて発見された地点が含まれていることなどを考慮しなければならない。
なお、この分布調査によって確認された遺物の出土地点又は遺跡所在地とそれらの遺跡の種別については、北海道教育委員会が昭和五十年度末に刊行した『埋蔵文化財包蔵地一覧表』中に収められているが、それ以上の点についてはまだ調査資料が整理されておらず公表されていない。
さらに、昭和四十八年七月には佐藤忠雄らが、かつて曾根原、後藤らによって発掘されたものと同類の古墳様墳墓四基を発掘調査し、その内容を昭和四十九年三月刊行の『上島松遺跡―恵庭市上島松遺跡の畑地改良に係わる緊急発掘調査報告―』(恵庭市教育委員会刊)に発表している。その報告者佐藤によると、本遺跡が実施に移されるまでの経緯は次のとおりである。
本遺跡は昭和四十七年四月、地主の中本正雄が耕作の際発見した。出土した遺物は続縄文期の土器三個体、土器片二〇点、石斧一点で、それらを出土した附近にはピットらしいものの存在も窺われたという。市教育委員会はその知らせをうけて山岸教育次長が現場に出向いて事を確認し、こんご附近の現場を変更することがある場合には事前に連絡するよう懇請、遺物を宰領した。旬日して地主より同年十月中に該地の耕地整理にブルトーザを使用したいとの申し出があった。そこで市教育委員会はその処置を道教育庁と協議、四月五日道文化財主事藤本英夫、同係長酒出季修らによる実地検分がなされた。その結果、遣物が出土した附近の耕地表面より縄文中期、後期、続縄文期の土器片、それに加えて擦文土器、土師器の小片が多量に発見され、また前記とは別に耕地整理中に墳墓と思われる箇所より完形の擦文土器、鉄斧も出土していたことが判り、およそ一万m2の耕地内に住居址や墳墓が広く点在する可能性の濃いこと、とくに現地点、宅地南に接する湧水近辺の丘陵斜面、東に接する樹木畑の斜面、島松川最低位の河岸段丘である西の畑が中心とみられる。また、北東の針葉樹林の段丘面に石狩低地帯では貴重な例である擦文文化期のものと思われる竪穴の落ち込み六箇所が認められるなど遺跡の重要さを示す所見がもたらされた。このことに基づいて市は早急に緊急発掘の計画をすすめることになった。まず調査の規模については、地主が当年耕地整理するため破壊される地点のみを対象とする。面積は二地点一〇〇〇m2である。
戦後しだいに盛んになった緊急発掘調査の実施に至る過程のうちにはこの説明にみられるのと近い経緯をもつ例がしばしばある。しかしまた、最近においては学術的理由に基づく発掘も試みられている。
すなわち、札幌大学の木村英明は、黄金町六二に所在する城遺跡をそのような理由をもって昭和五十一年七月二十六日から八月三日に亘り調査したが、なお、本調査によっては、土器時代末期に近い時期(後述第Ⅵ期)に形成された竪穴式住居址一穴が発掘されており、さらに調査は将来も継続される予定となっている。