第一節 前近代中期第Ⅰ期

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 弓矢の使用や漁撈は既に前の時代の末ごろには行われていたらしいが、この時代に入って盛んになった。この時代に弓矢が普及したのは、新しい環境に相応して繁殖した敏速で小型の多様な動物を射止めるのに都合が良かったからである。
 またこの時代には、気候の温暖化に伴い海岸や河川における活動が活発にできるようになり、漁撈が盛んになったが、漁撈には銛(モリ)や釣針に加えて網も用いるようになった。
 その漁網の素材は植物性繊維である。また、植物性繊維によってはバスケットも盛んに編まれるようになった。これというのも気候の温暖化に伴い植物資源が豊富に入手できるようになったからである。
 そして、植物性繊維で編んだバスケットは土器に表現され、土器文様となり、こうしていわゆる「縄文式土器」が誕生し、北上して北海道へと伝えられた。しかし、北海道における土器はいわゆる「縄文式土器」ばかりではない。土器使用の始まりは本州においては一万年以上前あるいは一万二〇〇〇年以上前ともされているが、北海道における場合は八〇〇〇ないし九〇〇〇年前ぐらいとしている研究者が多い。
 本市西島松南D遺跡出土のこの時期のものは絡条体圧痕文の施された「梁川町式土器」12及び「タンネトウE式土器」51 と呼ばれるものの破片であり、さらに同遺跡には「春日町式土器」33 片も出土しているとされている。14
 
第5図 西島松南D遺跡第2地点出土第Ⅰ期の土器片 昭和38年8月発掘⑭

 また、これら本市における土器と同類のものは縄文時代早期の土器として紹介されることが多く、本州においては早期の前に草創期が設定されているが、北海道においては本州の草創期に相当する時代のものをそれと明確に指摘し得るようなものがなく、草創期の設定又は草創期と早期の区分が研究者一般に疑問視されており、ここでは前近代中期第Ⅰ期の文化所産としている。
 なお、梁川町式土器、タンネトウE式土器及び春日町式土器とは、梁川町式土器と春日町式土器とが函館市の梁川町遺跡と春日町遺跡、タンネトウE式土器が長沼町タンネトウ遺跡の土器を標準として名付けられた呼称である。そして、それらのうち少なくとも梁川町式及びタンネトウE式土器の破片は第Ⅰ期後半の所産であり、春日町式土器片は次の時代のものかもしれない。
 この時期にはまた、土器に伴ういろいろな種類の石器や骨角器が使われた。それらは獣類の狩猟具や獲物を処理するための道具、漁撈具などであった。しかし、本市内で出土する利器類のうちにこの時代の所産として明確に指摘できるものは見当たらない。このことは本市内において、この時期の所産である石器や骨角器が出土していないということではなく、むしろ実際には必ずやそのようなものが出土しているはずであるが、それと判断し難いということである。石器のタイプや石質などからそれらの作られた時代を言い当てるといったことは、特にこの時代のものについてはかなり困難であるし、本市内出土のこの時代の石器については理化学的年代測定法に基づく検討もなされていない。また、骨角器や木器は腐食して確認できないだけで、それらも多様に作られ、使用されていたはずである。
 これに対して、土器は腐食しないし、一般にその文様、器形などについて時代による変化を認められ易いので相対年代の決定に便利であり、石器のうちでも他の時代のものについてはある程度の幅で時代を特定できるものがある。
 さらにまた、北海道ではこの時代になって竪穴式住居群や竪穴式墳墓群が形成されるようになったが、まだ本市内ではこの時代のそれらが発見されていない。
 なお、この第Ⅰ期における文化は、狩猟のための弓矢が普及されるようになったこと、漁撈や植物資源の利用が盛んになったこと、土器使用が盛んになったこと、磨製石斧などの磨製石器が普及されるようになったこと、竪穴式住居群や竪穴式墳墓群が形成されるようになったことなどの要素が複合的となったことによって特徴づけられるであろう。そして、こうした文化複合は前近代、特にその中期を通じて認められる。