第Ⅰ期の文化はやがて、その前の時代とで認められたような差違ほどではないにしろ、かなりの変化を余儀なくされる時期がやってきた。それは自然環境の変化に応じて必然的に起こったことであった。
恐らくこの時代は第Ⅰ期よりも暖かくなり、前時代にも増して海が内陸方向へと押し寄せた。そしていわゆる「縄文時代」における海進、「縄文海進」のピークがこの時期にやってきたであろうことは、このころにおける札幌―苫小牧低地帯附近の遺跡の分布状態から推察される<第6図>。28また、そのため石狩湾は今日よりも内陸へと分け入り美々湾が形成された。このことは、この時代における恵庭地方に海岸があったことを物語るわけではないが、海がすぐ傍まで押し寄せていたことを想起させてくれる。
さて、本市内でこの第Ⅱ期に形成された遺跡としてあげることのできる例は、下島松第2A遺跡と西島松南D遺跡とであり、前者には綱文式土器片が、後者には静内中野式土器に類するものが出土している。そのうち静内中野式土器に類するものを報告者は「綱文系」としている。14なお、西島松南A遺跡にも尖底土器かあるいはそれに近いものが出土している。14
また、それらのうち、綱文式土器は円底で後者は尖底をなしている。さらに前者は横位の太めの縄文様が施されているものであり、後者は多くの場合斜行する縄文様が施され、植物性の繊維を含むものがあり、前者が後者よりも早い時期、この時期前半の所産らしい。
この時期の北海道における土器底部はいずれも丸底か尖底形を呈しているが、尖り底の土器は前の時代にも作られており、既述の梁川町式(住吉町上層式ともいわれる)土器が尖底、尖底ないし尖底に近い丸底又は平底を呈している。また、春日町式土器も尖底を呈している。しかし、第Ⅰ期においては、尖底土器のほかに平底の土器が全道的に出土しており、とくに道東部は初期平底土器の文化圏である。
このような点からすると、北海道では尖底土器が第Ⅰ期から第Ⅱ期へと続けられる系譜と平底土器作りから尖底土器作りへと技術の文化が変化される系譜とがあることが考えられる。そして、尖底の土器は水平なところにそのまま置くことができないので、使用しないような場合には往々伏せて置いた。
また、そのような土器に伴う第Ⅱ期における石器は、種類の上で第Ⅰ期と大きく異なるとは言えず、石鏃(矢の先)、石槍、いろいろな種類の掻器、石錐、石斧などは前時期より作られてきた。しかし地方によってはその形態が多少なりとも前時期と差違を認められることがある。さらに、この地方の特に石鏃と石槍、そして掻器、石錐などの石材は黒曜石である例が多いが14<第6・8表>、黒曜石の産地は遠く、それらの原材はおそらく交易的な活動によって入手されたものである。
なおまた、この時期には地方により北海道式石冠(「手持石杵」とも呼ばれる)14<第14・15図>や窪み石46 <第9図>が多量に用いられるようになる。しかし、本市内においてこれまでに出土しているそれは次の時期における所産と思われる。
第9図>第14・15図>第6・8表>第6図>