第三節 第Ⅲ期

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 文化的内容の上でこの時期と第Ⅱ期とで極めて大きな差違を認めることは難かしい。しかしながら、このころの北海道における諸遺跡をみると、第Ⅲ期に至って「貝塚」がやや小さくなったり、物質文化にいくらかの変化がきたされていることを認められたりするので、それなりに自然環境にどれほどかの差が生じていたものと思われる。たとえば、それは海進のピーク期が過ぎてゆるやかな海退の時期がやってきたというようなことかもしれない。それはともあれ当時の人々は自然に対する依存度が強かっただけに、自然環境の変化を敏感に文化に反映させた。
 ところで、この時期に形成された本市内の遺跡とそれらに伴う遺構、土器を示せば次のようである。
   一、穂栄遺跡―北筒式土器。
   一、下島松第3遺跡―北筒式土器、余市式土器。
   一、下島松第2A遺跡―円筒上層式土器。
   一、下島松第2B遺跡―北筒式土器。
   一、西島松南E遺跡―北筒式土器。
   一、西島松南D遺跡―「平地住居址」二箇所、円筒下層式土器、円筒上層式土器、北筒式土器。
   一、柏木川・縦貫自動車道路遺跡―竪穴式住居址四(ないし六)か所、円筒上層式土器(サイベ沢Ⅵ式土器)。
   一、X地点(後述)―円筒上層式土器。
   一、上島松遺跡。

写真9 柏木川・縦貫自動車道路遺跡発掘の
第Ⅲ期後半に構築された4・5号竪穴式住居址
昭和45年発掘46
写真10 柏木川・縦貫自動車道路遺跡発掘の
第Ⅲ期後半に構築された6号竪穴式住居址
昭和45年発掘46

写真11 柏木川・縦貫自動車道路遺跡発掘第4号竪穴式住居址出土の円筒上層式土器
昭和45年発掘・第Ⅲ期後半の所産・北海道開拓記念館蔵・46

 すなわち、この時期の所産である遺構、遺物の出土地点は以上で九か所あり、時代の判明している遺跡の数を時代別にみると、第Ⅵ期とともにこの時期が多い。
 この時期の所産のうちで、最も古い土器といえば、円筒下層式土器であり、それに続いて同上層式土器が起こった。また後者とほぼ平行して北筒式土器もあり、北筒式土器出現時よりやや遅れて余市式土器が生まれた。そして、円筒式土器の分布は、北海道では西南部に濃く、それに対して北筒式土器の分布は道東、道北部に濃い。なお、円筒式土器の分布は東北地方の特に北半部でも濃く、奥尻島にも及び、津軽海峡を挟む一大文化圏の存在を物語っている。
第13図 西島松南D遺跡第3地点の竪穴式住居址から出土した円筒上層式土器
昭和39年8月発掘⑭

 余市式土器は、北筒式土器の一部とも見做され、札幌―苫小牧低地帯の西側附近に多く分布を認められている。
 さらに、このように二ないし三大型式に分類されているこの時期の土器は、いずれもその形態が筒形で平底を呈しており、総じて筒形土器類と称されることもある。
 以上の土器類に伴ってまた、いろいろな種類の石器が住居址より発見されている。
 西島松南D遺跡では、それらの伴出関係が明らかではないが、次の時期に形成されたと推定された平地住居址(?)より石鏃、石槍、石箆、石小刀、剥片石器、石錐、石製釣針、石斧、石鋸、石冠(手持ち石杵)、石皿などが出土しており、この時期に形成されたらしいやはり「平地住居地址」(?)から石鏃、石錐、石小刀、内形削器、石斧、石冠、石台が出土している。しかし、これらの石器はすべてがこの時代のものとは言えない。というのは、それらの住居跡より出土している土器をみると、いくつもの時代の所産が混じているからである<第5・7表>。
 また柏木川・縦貫自動車道路遺跡では四ないし六基のこの時代に形成された竪穴式住居址より、石銛、砥石、矢柄研磨器、磨製石斧、石皿、チョッパーなどの石器が出土している。46
 
第9図 柏木川・縦貫自動車道路遺跡で発掘された
第Ⅲ期後半の竪穴式住居址及びその出土遺物
昭和45年発掘46
第10図 柏木川・縦貫自動車道路遺跡で発掘された
第Ⅲ期後半の3号竪穴式住居址出土遺物
昭和45年発掘46

第11図 柏木川・縦貫自動車道路遺跡で発掘された
第Ⅲ期後半の4,5号竪穴式住居址出土遺物
昭和45年発掘46
第12図 柏木川・縦貫自動車道路遺跡で発掘された
第Ⅲ期後半の6号竪穴式住居址及びその出土遺物
昭和45年発掘46

 このように住居址からは、土器や石器の出土することが多いが、住居址から出土したものすべてが住居形成文化期の所産であるわけでなく、既述の住居址の例のように以前の時代の所産が混入されていることも稀ではないから、遺物相互間の伴出関係や遺物と遺跡との伴出関係の判断には慎重を要する。例えば、竪穴住居址の壁が崩れると、一見それは竪穴住居址でなく平地住居址のようにも見えるし、そのような場合には、幾時代もの所産の混入されることにもなる。既述の西島松南D遺跡の住居址は報告者によって「平地住居址」とされているが、北海道における正確な平地住居の報告は稀であり、おそらくそれは既述のような理由から竪穴住居址であるものと考えられる。
 なお、この時期後半において、千歳市美々にいわゆる「貝塚」が形成されているところから、第Ⅲ期にはまだこの地方が海岸に近かったことをうかがい知ることができる8 20