本市内で出土しているこの時期のもので一番古いものは「野幌式土器」でありそれに次いで「堂林式土器」、さらに「タンネトウL式土器」が作られるようになった。
野幌式土器の出土地としては、西島松E遺跡と西島松南D遺跡とがあり、堂林式土器の出土遺跡としては、西島松南C遺跡と西島松南D遺跡とがある。さらに、西島松南D遺跡からはタンネトウL式土器が出土している。この他、後述(第三章)A地点や柏木沢遺跡、上島松遺跡からもこの時期に作られたものが出土している。
第20図 西島松南D遺跡第2地点で発掘された 第Ⅳ期前半の土器片 昭和39年8月発掘⑭ | 第21図 西島松南D遺跡第2地点で発掘された 第Ⅳ期前半の土器片 昭和39年8月発掘⑭ |
第22図 西島松南D遺跡第2地点で発掘された第Ⅳ期前半の土器,土器片 昭和39年8月発掘⑭ |
また、この時代に至っての物質文化の多様化は、土器についてのみ認められるというのではなく、その他の道具類や器具類、あるいは装身具、儀礼用具などの品々を全体的にみて指摘し得る。それは例えば、第Ⅲ期にはみられなかった数種以上の装身具が愛用されるようになったり、宗教的側面を想起するような土偶が盛んに作られるようになったり、また、儀礼用具と推察される石棒や石剣が用いられるようになったなどのことによってうかがえよう。そういった遺物群は多くの場合墳墓において発見される<第17図、写真12~15>。
写真14 西島松南D遺跡A地点出土の土製装身具類。 第Ⅳ期の所産。本市郷土資料室蔵・⑭ | 写真15 西島松南D遺跡(最上段1点) 及び恵庭公園附近(他3点)出土の石棒。 第Ⅳ期の所産。4点中の最大長は52.8cm。 本土郷土資料室蔵 |
この時期には北海道の各地で竪穴式墳墓群が大規模に形成された。しかし、大規模な墳墓の形成は大集落の形成を意味しているのではなく、数世代あるいはそれ以上の長期に亘って墓地が形成されたことを物語っている。このことはまた、居住地の安定度がかなり高かったことを示している。
柏木川・縦貫自動車道路遺跡墳墓群は、この時期末近くに形成されたものであり、西島松南D遺跡の墳墓群もこの時期のものである可能性が強い。
写真18 柏木川・縦貫自動車道路遺跡の 第Ⅳ期後半の墳墓から出土した土器 昭和45年発掘・北海道開拓記念館蔵・46 | 写真19 柏木川・縦貫自動車道路遺跡の 第Ⅳ期後半の墳墓から出土した土器 昭和45年発掘・北海道開拓記念館蔵・46 |
写真20 柏木川・縦貫自動車道路遺跡の第Ⅳ期後半の墳墓から出土した土器 昭和45年発掘・北海道開拓記念館蔵・46 |
第16図 柏木川・縦貫自動車道路跡で発掘された 第Ⅳ期後半の墳墓 昭和45年発掘Pit30 46 | 第23図 柏木川・縦貫自動車道路遺跡の 第Ⅳ期後半の墳墓から出土した土器。 2及び4は大洞C2又はA式土器 昭和45年発掘46 |
また、既に述べたように、装身具類や儀礼用具は、墳墓より発見されることが多いが、本市内におけるこの時期の墳墓についてはそうした例がまだ知られていない。しかし、西島松南D遺跡より土製装身具、土製垂飾、土製滑車状耳飾などが石鏃や石斧とともに出土しており<第17図、写真14>、駒場町より土偶が出土している<写真13>。さらに、石棒も山岸貢によって採集されている(本市郷土資料室蔵)<写真15>。
石棒は、宗教的権威者としてのシャーマン(巫)の用いたものとも考えられており、また、土偶は女性崇拝や多産信仰との関係が深いとみられる傾向が強い。
なお、一説にはこの時期に焼畑農耕が行われたかもしれないとされているが、それは穀物酒の作られたことを想定した上での考えである。確かに他の地方のいくつかの遺跡で墳墓から徳利や坏が出土している例があるが、それをもって穀物酒が作られたと考えたり農耕が行われたと判断するのは危険と言えよう。25
さらにまた、従来、この時期は縄文時代の後期と晩期とに分けて説明されるのが普通であったが、北海道については後期と晩期とを文化的に区分しても特別の意味を見出せない。
写真15>写真13>第17図、写真14>第17図、写真12~15>