第Ⅳ期の終わりごろになると、物質文化に簡素化する傾向が認められる。それは例えば第Ⅳ期において飛躍的に多形化した土器群が、第Ⅴ期当初ごろに至っては再び画一化され、しかも小型化されてしまう。また、この時期には第Ⅳ期におけるような石棒や石剣、土偶、漆塗りの櫛などがみられない。その代わりこの時期になると金属器がしだいにわずかずつ入手量を増されて行き、末期にはかなりのものが伝えられている。
なお、本州ではこの時期当初にいくらか先んじて弥生文化が誕生した。また、既に稲作農耕は北上の途についていた。そして北海道における文化がこの時期に移行した理由については、おそらく南方からの文化との関係を明らかにすることを通じてかなり説明がつくであろう。だが、まだその的確な説明には苦慮される向きも否めない。しかも、もはやこの時期への移行理由を自然環境の変化にばかり求めることはできない。
この時期には鉄器の本州からの入手が僅かずつにしろしだいに容易になっていったが、その他の側面についてみると、当初はむしろ本州(東北地方北部を除く)との関係が絶たれる傾向を示している。それはこの時期当初の土器や石器に独自の発達がみられるといった点からも指摘できよう。ちなみに、第Ⅳ期における土器は種類、形態、文様などに本州の東北地方以南の文化との関連が強く認められたにもかかわらず、この時期当初に作られたものは、器形が一定で写実的に籠文様を施したまことに簡素な独自の感じのするものである。この後者の土器は「後北式類土器」といわれる。
また、石鏃の形態について言うと、この時期に入ると北海道一円で扁平な二等辺三角形を呈する第Ⅴ期独特のものが作られるようになった。
そして、こうしたことは、第Ⅳ期の終わりごろに一時的に本州における文化との関連が弱まったことを意味するものであろう。また、その理由は本州がかなりの金属器使用や稲作農耕を伴う弥生文化圏となり、そこでの文化と、主要な生業がそことは異なる北海道の在来民の文化との間に差違が起きたためではないだろうか。
なお、ここでいう「本州における文化」とは、特に北海道に近い東北地方北部を除いて考えた方が良い場合が多い。というのは東北地方の北半は、前近代において中期の終わり近くまで津軽海峡を挟む文化圏のうちに含まれているからである。
さて、既述の後北式類土器はこの時代のうちのかなり初めに近い時期に誕生したもので、主として道西南部に分布する江別式土器とオホーツク海岸及びそれに近い地方に分布する北見式土器とに大別されている。しかし、本市内出土のものは、このうち江別式土器と呼ばれている方のもので、その後半期ないし末期近くに作られたものが知られている。
すなわち、それは西島松南D遺跡、上島松遺跡、後述(第三章)A地点及び茂漁のチャシ・コツ内(T地点)などに出土している。なお、西島松南D遺跡には江別式C2及びD1型が、上島松遺跡では江別式C2及びD2型が出土している。また、茂漁遺跡(Q地点)においても後北式類土器片らしきものが出土している。14
なお、江別式土器はもっとも新しい分類法によれば、A1、A2、B0、B1、B2、C0、C1、C2、D1、D2各型に細分されており、B1型において籠文様に写実的な綱文様が加えられ、B2型からC1型、C2型を経る間にその綱文様が曲線化され、D1型、D2型の時代にそれが省略されるというプロセスを踏んでいる。また、その写実的な綱文様こそが渦巻き状や中括弧型を呈したいわゆる「アイヌ文様」の起源である。