第六節 第Ⅵ期

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 『日本書紀』巻第廿六の斎明五(六五九)年の記述のうちに次のように述べているところがある。
 是の月阿倍臣(あべのおみ)〔名を闕せり。〕を遣して、船師(ふないくさ)一百八十艘を率いて、蝦夷國(えみしのくに)を討たしむ。阿倍臣、飽田(あきた)、渟代(ぬしろ)二郡の蝦夷(えみし・えびす)二百四十一人、其の虜(とりこ)卅一人、津軽郡の蝦夷一百十二人、其の虜四人、膽振鉏(いふりさへ)の蝦夷廿人を一所に簡(えら)び集めて、大に饗(あ)へ祿(かつけもの)を賜ふ。〔膽振鉏、此をイフリサヘと云ふ。〕即ち船一隻と、五色の綵帛(しみのきぬ)とを以て、彼の地の神を祭る。肉入籠(しゝりこ)に至る時に、問㝹(とびう)の蝦夷膽鹿島(いかしま)、㝹穂名(うほな)の二人進みて曰く、後方羊蹄(しりべし)を以て政所(まつりごところ)と為す可し。〔肉入籠、此をシシリコと云ふ。問㝹、此をトヒウと云ふ、㝹穂名、此をウホナと云ふ。後方羊蹄、此をシリベシと云ふ。政所は盖し蝦夷の郡か。〕膽鹿島(いかしま)等が語に随ひて、遂に郡領(こほりのみやつこ)を置きて帰る。
 また、同巻斎明六年(六六〇)のところに次のように記されている。
 三月、阿倍臣(あべのおみ)〔名を闕せり。〕を遣して、船師(ふないくさ)二百艘を率いて、粛慎国(みしはせのくに)を伐たしむ。阿倍臣、陸奥の蝦夷を以て、己が船に乗らしめて、大河の側に到る。是に渡嶋の蝦夷一千余、海の畔(ほとり)に屯聚(いは)み、河に向ひて営(いほり)す。営(いほり)の中の二人進みて、急(にはか)に叫びて曰く、粛慎(みしはせ)の船師多(さは)に来て、将に我等(おのれら)を殺さむとする故に、河を済(わた)りて仕〓(つかまつ)らむと願欲(こ)ふ。阿倍(の)臣船を遣して、両箇(ふたり)の蝦夷を喚(め)し至らして、賊(あだ)の隠所(かくれところ)と、其の船数とを問ふ。両箇(ふたり)の蝦夷便(すなは)ち隠所を指して曰く、船廿余艘(はたちあまり)あり。即ち使を遣して喚(め)すに、肯(あへ)て来らず。阿倍臣乃ち綵帛(しみのきぬ)、兵鉄(つはものねりがね)等を海の畔(ほとり)に積みて貧嗜(ほしめつな)ましむ。粛慎(みしはせ)乃ち船師を陳(つら)ね、羽を木に繋(か)けて、擧げて旗と為し、棹を斉(ひとし)めて近づき来て浅き処に停りぬ。一船の裏(うち)より二(ふたり)の老翁(おきな)出でて、廻り行(あり)きて、熟(つらつ)ら積む所の綵帛等(しみのきぬなど)の物を視て、便ち単衫(ひとへきぬ)を換へ著て、各布一端(むら)を提げて、船に乗りて還り去ぬ。俄(しばらく)して老翁更に来て、換(か)へたる衫(きぬ)を脱ぎ置き、扞せて提げたる布を置き、船に乗りて退(まか)りぬ。阿倍(の)臣数船(あまたのふね)を遣(や)りて喚(め)さしむれども、来ることを肯せず、弊賂弁島(へろへのしま)に復(かへ)りぬ。食頃(しばらく)ありて和(あまな)はむと乞ふ。遂に肯て聴(ゆる)さず、〔弊賂弁(へろへ)は度嶋(はたりしま)の別なり。〕己が〓(き)に拠りて戦ふ。(黒坂勝美編、岩波文庫)
 そして、これらの記述における膽振鉏(いふりさへ)、肉入籠(しゝりこ)、門㝹(とびう)、後方羊蹄(しりべし)などの地名が、今日の札幌―苫小牧低地帯西側附近に現在ある地名と通ずるであろうことは、『日本書紀』における地名と今日の地名との発音上の一致や近似性、当て字の一致、また、前者の地名が「アイヌ語」そのもの又は「アイヌ語」らしい語として見做されること、そして、『日本書紀』における四か所の地名をセットで最近の地名に結びつけようとしても他に結びつけようがないことなどから容易に察することができる。
 しかし、そこで『日本書紀』の地名の所在地と今日の地名の場所とが一致するとしても、ただちに『日本書紀』の既述の記事が正しいということにはならない。もしもそれが正しいとしたなら、阿部臣は胆振や支笏や竹浦や後志地方に六五九年とその翌年にやって来たことになる。だが、当時大和朝廷の勢力が、直接的に札幌―苫小牧低地帯にまで及ぼされたとは決して言いえない。というのは東北地方に同勢力が及んだ過程をみると、その日本海岸側の北上で、八世紀に至ってやっと秋田に柵や城を設けることができるようになったわけだし、太平洋側の北上についてはこれよりもっと遅れているからである。また、海伝いにいっきにその勢力が北海道へ、しかも渡島半島に痕跡すら残さず札幌―苫小牧低地帯へ及んだという飛躍的な考え方も単なる臆説にしかならない。もし、当時阿倍臣が札幌―苫小牧低地帯の西側附近にやって来たというのなら、それなりの証拠を見い出さなければならない。その証拠は全く見当たらない。
 しかし、これよりかなり遅れた平安時代の後半ごろに相当する時期になって、ちょうど既述の札幌―苫小牧低地帯附近に本州からの人々の渡来があった。彼らのなかには茂漁や柏木川、縦貫自動車道路遺跡所在地のあたり、上島松などで、屍を埋められるものがでた。その埋葬墓が既に第一章において紹介した古墳様墳墓(北海道式古墳)である。
 それらの出土遺跡と発掘調査数については次のとおりである。
   柏木東遺跡          一四基
   柏木川・縦貫自動車道路遺跡   一基
   上島松遺跡           四基

 
第25図 上島松遺跡の古墳様墳墓第1号墳墓
昭和47年8月発掘42
第26図 上島松遺跡の古墳様墳墓第2号墳墓
昭和47年8月発掘42

第27図 上島松遺跡の古墳様墳墓第3号墳
昭和47年8月発掘42
第28図 上島松遺跡の古墳様墳墓第4号墳
昭和47年8月発掘42

写真22 上島松遺跡の古墳様墳墓第1号墳墓
昭和47年8月発掘・佐藤忠雄撮影
写真23 上島松遺跡の古墳様墳墓第4号墳墓
昭和47年8月発掘・42
写真24 上島松遺跡の古墳様墳墓第3号墳墓 昭和47年8月発掘・佐藤忠雄撮影

 また、それらの墳墓からは土師器、須恵器、多様な鉄器類などが出土している。
写真25 上島松遺の古墳様墳墓
第2号墳墓における刀子の出土状況
昭和47年8月発掘・42
写真26 上島松遺跡の古墳様墳墓
第3号墳墓における鉄斧の出土状況
昭和47年8月発掘・佐藤忠雄撮影

写真27 上島松遺跡昭和47年発掘地点附近出土の鉄器
佐藤忠雄撮影
写真28 上島松遺跡昭和47年発掘地点附近出土の鉄器
佐藤忠雄撮影

 土師器や須恵器(須恵器はかつて朝鮮土器とも言われたこともある)は、それらが伝えられるまでの北海道における在来民の土器とは大きく違ったもので、土師器のなかには、それが轆轤(ろくろ)によって作られたものであることを物語る糸切り痕のある底部をもつものが含まれている。
 これらに伴って発見された鉄器類のうちには柄の先端が蕨の先端部に似ていることによって名付けられた蕨手刀、直刀、刀子、〓(け)、鑷子(ちょうし)、飾鐶、鉄斧、錐状鉄器、鎌、鍬針などの鉄器類が出土している。さらに、柏木川・縦貫道路遺跡の例では土玉も出土している。
第29図 鑷子 茂漁附近出土23第30図 柏木川・縦貫自動車道路遺跡で発掘された
古墳様墳墓出土の鉄器類(鍬先,刀子,鎌,針),
土玉及び土器 昭和45年発掘46

第31図 上島松遺跡の古墳様墳墓第1号墳墓から
出土した刀子及び石器 昭和47年8月発掘42
第32図 上島松遺跡の古墳様墳墓第2号墳墓から
出土した刀子 昭和47年8月発掘42
第33図 上島松遺跡の古墳様墳墓第4号墳墓から出土した須恵器 昭和47年8月発掘42

写真29 上島松遺跡の古墳様墳墓第2号墳墓から出土した刀子
昭和47年8月発掘・佐藤忠雄撮影
写真30 茂漁の古墳様墳墓から出土した刀子
市立旭川郷土博物館蔵

写真31 蕨手刀 故児玉作左衛門蔵 出土地詳細不明であるが市内出土品
写真32 茂漁の古墳様墳墓から出土した鉄製環
昭和7年後藤壽一,曾根原武保発掘・
市立旭川郷土博物館蔵
写真33 茂漁の古墳様墳墓から出土した鉄製鎌
昭和7年後藤壽一,曾根原武保発掘・
市立旭川郷土博物館蔵

 また、茂漁附近で発見された日本最初の鋳造貨幣である和銅開珎や馬具も、やはり古墳様墳墓から出土したものであろう。それらのうち和銅開珎は北海道ではまだ恵庭にしか発見されておらず<写真34・35>、馬具は東京国立博物館の所蔵になっているといわれる。
写真34 和銅開珎
茂漁附近出土? 市立旭川郷土博物館蔵・24
写真35 和銅開珎の裏面

写真36 上島松遺跡の古墳様墳墓
第4号墳墓から出土した須恵器
下の写真はその蓋
昭和47年8月発掘・本市郷土資料室蔵・
佐藤忠雄撮影・第32図と同じ
写真37 西島松南B遺跡
第1号竪穴式住居址から出土した須恵器
昭和38年8月発掘 本市郷土資料室蔵・⑭

 そして、このような遺物のうちのいろいろなものが出土する古墳様墳墓の一例をみると、例えば後藤壽一は茂漁における例で次のように報告している。
 第八号墳 墳丘の高さ三〇糎、長径四米五〇糎、短径四米の楕円形。墓壙は全く判明しない。遺物は墳丘の頂より四〇―五〇糎の所にある。遺物群の中央より南に当って三箇の飾鐶が一線に並び、その一端から南西二〇糎に土器一、土器の西三〇糎に、柄頭を南に向けた刀子一、刀子の鋒部から二〇糎北に柄頭を南東に向けた刀子一、此の刀子と土器との間に鑷子一、刀子の東二〇糎に鐵鐶を出す。
 なお、河野広道は既述の『日本書紀』の記述と古墳様墳墓との関係について、かつて、
 私は江別から苫小牧までの間の古墳様墳墓を、阿倍臣の郡役所時代の遺跡そのものであるとは思っていません。これらの墳墓群の中には、或いは奈良朝以前に遡るものがあるかもしれませんが、大部分は奈良朝乃至平安朝時代に遺されたものでしょう。刀の形式や和銅開珎の存在がその時代を示しています。奈良・平安朝期に北海道は奥羽の豪族阿倍氏の勢力下にありましたが、阿倍一族の駐留地の遺跡が、江別―苫小牧間の古墳様墳墓群ではないのでしょうか。そしてそれは、前代の後方羊蹄を中心とする地域を継承したものであると考えられるのであります。20
 と述べているが、その後の諸研究によると、北海道における古墳様墳墓は、平安時代後半期に相当するころの東北地方出身の人々の文化所産であるとされるようになった。
 そして、以上のような墳墓を残した人々は、在来民の文化に大きな影響を与えている。すなわち、この時期には在来民の土器が土師器や須恵器に似せて作られるようになったり、石器が使われなくなっていったり、竪穴式住居の平面観がどれも正方形に近い四辺形になったりした。また、石器が作られなくなってもその代わりとなる鉄器が用いられるようになった。北海道の西南部においては、第Ⅴ期でいわゆる石器時代が一応の終わりを告げられる。鉄製利器の普及によってはまた、木製品の加工が便利になったことを考慮されてよい。
 ところで、この時期に本市内に形成された遺跡といえば、既に述べた古墳様墳墓の三遺跡に加えて、次の諸例をあげることができる。すなわち、それらは中島松遺跡(F地点)、下島松南1遺跡、西島松南D遺跡、西島松南B遺跡、茂漁遺跡2地点、茂漁のチャシ・コツ内(88地点、T地点)、柏木東遺跡、恵庭公園遺跡、城遺跡と後述(第三章)O地点である。
 これらのうち中島松遺跡(F地点)、下島松南1遺跡、西島松南B遺跡と恵庭公園遺跡及び城遺跡については、住居址の発掘調査が行われている。また、下島松遺跡で須恵器、「土器系土器」、紡錘車などの出土した一竪穴式住居址は、調査後発掘調査者らによって復原されている。14
 
第34図 恵庭公園遺跡の竪穴式住居址から出土した擦文式深鉢形土器
昭和37年7月発掘⑭

第35図 西島松南B遺跡で発掘された第1号竪穴式住居址出土の擦文式土器(右列3点),
「土師系土器」(左列上),須恵器(左列下) 昭和38年8月発掘⑭
第36図 西島松南B遺跡で発掘された
第2号竪穴式住居址出土の擦文式深鉢形土器
昭和38年8月発掘⑭
第37図 西島松南B遺跡で発掘された
第2号竪穴式住居址出土の擦文式土器
昭和38年8月発掘⑭

 さらに、同発掘調査者はこの下島松遺跡の住居址について、次のように述べている。
  「本遺跡は、竪穴の構造並びに出土した遺物などから推定すれば、須恵器文化を所有した人々の住居址であるように思われる。本文化の竪穴の構造を、本町に存在する擦文文化期の竪穴と比較して、特記すべきことは、竪穴の輪郭が正確に方形をなすこと。窯は壁画の中央部につくられていること。屋根形は四柱造形で、棟木が明確に存在していることなどで、住居の構造はいわゆる擦文文化のものに比し、やや進歩しているということができよう。本住居様式に類する構造の竪穴は、目下のところ本道では報告例がない。」
 そして、城遺跡の住居址が北大式土器を伴う在来民のものであり、他の三遺跡の住居址が、擦文式土器を伴う在来民のものであった。しかし、そこには土師器や須恵器もともにみられることがある。そこで、この時期に形成された遺跡と出土土器型式との関係をみると次のようである。
中島松遺跡(F地点)擦文式土器
下島松遺跡(12地点、G地点)「土師系土器」・須恵器
西島松南D遺跡(L地点)北大式土器・擦文式土器・「土師系土器」・須恵器
西島松南B遺跡(M地点)擦文式土器・「土師系土器」
茂漁遺跡(Q地点)北大式土器・擦文式土器・須恵器
茂漁のチャシ・コツ内(88地点、T地点)擦文式土器・土師器
柏木東遺跡(R地点)擦文式土器・「土師系土器」
恵庭公園遺跡(W地点)擦文式土器
柏木川・縦貫自動車道路遺跡(N地点)擦文式土器・土師器
上島松遺跡(Y地点)擦文式土器・土師器・須恵器
城遺跡(P地点)北大式土器
O地点擦文式土器

 
写真38 茂漁(柏木東遺跡)出土の須恵器
昭和7年後藤壽一・曾根原武保発掘第1号墳出土
写真39 茂漁(柏木東遺跡)出土の擦文式高坯形土器
昭和7年後藤壽一・曾根原武保発掘第1号墳出土
市立旭川郷土博物館蔵

写真40 茂漁出土の擦文式土器
昭和7年後藤壽一,曾根原武保発掘
市立旭川郷土博物館蔵
写真41 上島松遺跡昭和47年
発掘地点附近出土の擦文式深鉢形土器
佐藤忠雄撮影

 これらの遺跡より出土している土器のうち「北大式土器(後北E式とも呼ばれた)」と称されているものは、第Ⅴ期の江別式土器に後続するもので、さらにこれが擦文式土器へと移行した。また、それらはいずれも在来民による文化所産であった。