第七節 前近代の終末

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 この時代はいわゆる「和人」が渡島半島南部の特に海岸地帯で、在来民に対し部分的にしろ多少なりとも支配的な立場をとり始めた時から始まる。また、その終わりは北海道のほとんど全域において在来民が根本的に旧来の文化変質されてしまった時である。
 なお、この時代は、しばしば「アイヌ期」とか「アイヌ文化期」といわれる。しかし、当時の少なくとも前半における北海道の在来民の多くが、一民族又は一共同社会的意識をもって「アイヌ」を自称していたわけではないから、そのような言い方は他称的な誤まった、言い方に過ぎない。むしろ、この時代における北海道の在来民は、いくつもの社会に分かれていたと見るべきであり、これらの人々に共通の一民族的意識が形成されたのはごく新しいことである。そして、この時代は一民族的「アイヌ」意識が形成されるに至るまでの過程の時期であり、そのような社会的意識の構成理由としては、「和人」による抑圧を第一にあげることができる。
 しかし、こういった点を含む多くの諸問題に関する叙述については別稿に譲り、ここでは特に考古学的に注目されている点について以下に触れることにする。
 本市内には、この時代に構築されたものと推定される遺跡として、チャシ・コツが知られている。
 すなわち、茂漁のチャシ・コツがその例であり、既に昭和初期に所見を報告されている。36また、その報告者はそれについて次のように述べている。
 段丘は直下に茂漁の清流を望んで稍々三角状に突出し、南東の二画は何れも急傾斜をなして妄に攀登を許さず、北西の二方は緩傾斜をなして、幾多の丘陵を畫く樹林地竝に耕地に連る。第九図は此のチャシを、川を隔てゝ南西より望んだ所である。チャシは突出部を空濠にて画し(第十図C點)て不等辺三角形を造る。空濠は尖端より一辺を一三米、他辺を一九・五米に画して掘られ、その長さ二一米、幅は上縁で四・五米、深さは腐蝕土や火山灰に埋められて現在は七〇糎(第十一図)、濠の外縁には濠の掘土が盛られてある。チャシ築造当時の濠の底は四〇糎の幅であったらしい。底には底土と黒土とを混じて黒褐色となった土が一〇糎、その上に三〇糎の黒土がある。更にその上が二〇糎の火山灰、その上が黒土二〇糎。此の点から考へて、此の濠が掘られてから火山灰の降下までは、尠くとも火山灰降下後その上に生じた黒土層の厚さ以上の黒土を生ずる期間を経たものであることが窺和されるのである。尚此の濠の内部に添ふて約一米五〇糎の幅で濠より更に深く掘られたものがある。これは此の濠の以前に即ち此のチャシ築造以前のものであることは明らかであるが、それが何であるかは不明である、これは今後の調査に譲ることとする。
 更に此の空濠を内濠としてその北方二四・七米隔てた所(第十図D点)に外濠ともいふべきものがあったのではないかと思はれる。これは第十図のC点の地層が、可なり広い部分に亙って黒色腐蝕土の上に掘返された黄褐色の底土の層があることによって想像されるのであるが、外濠そのものは判然しない。尚此のチャシには若干の竪穴様墳墓を遺してゐる。
 
第38図 茂漁のチャシ・コツの平面図36第39図 茂漁のチャシ・コツの濠断面図36

 なお、チャシの機能については一様とはみられなく、アイヌ語で「チャシ・コツ」の「チャシ」は「砦」「城」など、「コツ」は「跡」、などの意をもつといわれているが、チャシには祭儀場とされたもの、儀礼の対象としてのもの、あるいは居住地としてのものなど、いろいろな機能をもつものがあったらしい。そして、茂漁に構えられたチャシがそのうちどのような機能をもったものかは判っていない。
 しかし、道内における最近のチャシ・コツの発掘調査によれば、その構築された年代は、この時代の始めごろ、すなわち室町時代に相当する頃の例が多い。
 また、道教委の調査によっては、本市内にはこのほか西島松(道教委登録番号93地点)にもチャシ・コツがあるとされており、さらに、この地点のほぼ南西方向の縦貫自動車道路向い側に、それらしき地形が見つけられているが、これらについては第三章において紹介する。
 また、現在市街地となっている後述X地点では、数百年ほど前と思われる在来民の人骨(頭骨)が出土したといわれており、また、後述一〇〇地点においては「アイヌ刀剣」が出土したという。