第三章 遺跡各説

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 本市内には、一〇〇か所以上の遺跡所在地又は遺物の出土地点が知られており、それらのうちの多くは柏木川、ルルマップ川、茂漁川、漁川の川沿いの標高二〇~三〇メートルほどの段丘上に集中的に認められているが、ここでは特にそれらを個々の地点別に内容紹介する。とはいえ、これまでに文化内容のかなりが判明している遺跡はといえば、既述の一〇〇か所近くの地点のうちの数分の一であり、その他については若干の出土遺物しか採集されていない。そして、これまでに文化的な内容のほとんどわかっていないような遺跡や遺物の出土地点が、北海道教育委員会の昭和四十七年における調査によって確認された九五か所もの地点のうちに多数含まれている。
 次に、同調査によって確認された遺跡又は遺物の出土地点、それらの種別や名称などのリスト(昭和五十年度末北海道教育委員会刊)を掲載し、そのうち既に発掘調査の報告がなされている遺跡、多少なりとも既述のリストにみられる以上の文化内容についての知見が得られている遺跡、これまで紹介されてこなかった遺跡などについては後述することにする。
北海道教育委員会『埋蔵文化財包蔵地一覧表』(石狩支庁管内恵庭市分)

 以上の表における地点を種別に分けて数えると、
  集落跡      一か所
  住居址      一九か所
  墳墓       三か所
  祭祀遺跡     一か所
  チャシ跡     二か所
  遺物包含地    六九か所

 となり、遺物包含地が圧倒的に多いが、それらは本来住居址や墳墓や祭祀遺跡などであるはずである。しかし遺物の表面採集ほどの調査によっては、遺跡の性格までを知ることがほとんどできないために遺物の出土地帯を便宜上「遺物の包含地」と呼んでいるわけである。
 さて、以下においては既に本章の始めに述べたように、発掘調査の報告がなされている遺跡ほかの概要を述べることにする。
A地点
 これまでに知られている本市内の遺跡のうちでもっとも北に位置する遺跡であり、山岸貢によれば、かつてここから第Ⅳ期及び第Ⅵ期に属する土器や石斧、石槍などが出土したという。しかし、本地点は柏木川改修工事によって既に破壊されている。

B地点 穂栄遺跡
 大場利夫・石川徹によれば、「北筒式の要素を多分に含んでいる」土器片や「北筒式土器と思われる」ものが出土している。14

 なお、本地点は後述北海道教育委員会登録番号16地点と合致するであろう。
C地点 下島松(北)第3遺跡
 ここでは「余市式土器に見られる特徴をそなえた」土器片と「北筒系の土器と思われるもの」(土器破片)とが採集されている。14また、それらは第Ⅲ期後半の所産である。

 なお、本地点は後述北海道教育委員会登録番号15地点のあたりである。
D地点 下島松(北)第2A遺跡
 ここからは「円筒上層式と思われる」土器片が出土している。14また、それは第Ⅲ期後半期の所産である。

E地点 下島松(北)第2B遺跡
 この遺跡では、「いわゆる綱文式土器と思われる」土器破片と第Ⅲ期後半期に作られた土器片とが出土している。14

 なお、本地点は後述北海道教育委員会登録番号13地点あたりである。
F地点 中島松遺跡
 昭和三十七年七月に大場・石川によって二重の竪穴式住居址が一か所発掘されている。そのうちの一跡は平面観の円形をなすものであり、ここから第Ⅲ期後半及び第Ⅳ期前半に属する土器片が得られている。また、他の一址は第Ⅵ期に作られた平面観が矩形の住居跡であって、炉、窯、煙道が発見されており、擦文式土器浅鉢型の完形品一点他が出土している。14

 なお、本地点は、後述北海道教育委員会登録番号11地点の近く(北東寄り)であり、昭和三十七年において地表面より一三か所の窪みを認められている14<写真1>。
G地点 下島松(南1)遺跡
 昭和三十七年七月、大場・石川らにより一竪穴式住居址が発掘調査されており、これに窯、煙道、柱穴などが認められている。また、これは調査後推定復原された。その出土遺物としては、「土師系土器」、須恵器片、紡錘車などが上げられており、その他第Ⅲ期所属の北筒式及び第Ⅵ期所属の擦文式土器破片、石槍、石小刀なども出土している。しかし、この住居址は報告者によれば、「須恵器文化を所有した人々」によるものとされている14<写真2・43・44>。

 
写真42 西島松南B遺跡
第2号竪穴式住居址第Ⅵ期に構築されたもの
昭和38年8月発掘・⑭
写真43 下島松(南1)遺跡の
竪穴式住居址における炭化物の出土状況
昭和37年7月発掘・⑭
写真44 下島松(南1)遺跡における
竪穴式住居址の発掘完了後の状態
昭和37年7月発掘・⑭

 また、この地点は道教委登録12地点と一致するものと思われる。しかし、道教委登録では52地点を下島松遺跡と称している。
H地点 西島松南E遺跡
 北筒式及び野幌式各土器片が出土している。14

 なお、この地点は道教委登録番号9地点のあたりである。
I地点 西島松南C遺跡
 大場・石川により堂林式1及び同2群土器片の出土が報告されている。14

J地点 西島松南A遺跡
 底の「尖底かまたはこれに近いものと思われる」土器の破片が出土した。14

K地点
 山岸貢によれば、石棒(郷土資料室蔵)や尖底土器が出土している。

L地点 西島松南D遺跡
 大場・石川らが昭和三十七年七月にA地点、昭和三十九年八月に第1、第2、第3地点を発掘調査している。

 このうち昭和三十七年調査分についてみるとその報告で次のように述べている。14
 本遺跡の主体をなす遺物は、縄文文化晩期―後期の土器及び石器である。遺物の数は第6表及び第7表に示した如くで、総数一〇二五ケの多数にのぼっている。それらのうち土器は、第2層及び第3層内に重複して発見されたが、それらを第2層と第3層出土品に、区分分類することは不可能な状態であった。なお本遺跡から出土の土器は、耕作中に浮上したために、すでに逸散したものも多いが、それらのものを加えれば、その数はおびただしいものと考えられる。
 縄文文化晩期以外の遺物では、本地点の下層からは、縄文文化中期の円筒上層式土器が数片出土している。また上層からは、続縄文文化期のいわゆる後北式土器が出土している。
 そして、昭和三十九年調査分の第1地点では、「縄文文化後期~晩期初頭の突瘤文土器系統のもの」や焼土が認められている。
 さらに第2地点及び第3地点についての出土遺物については次表のとおりに報告されている。
 なお、第2地点では平面観の円形な「平地住居址」なるものが発掘されており、これに土器片によって囲まれた炉跡、焼土、柱穴などが認められている。また、その出土遺物は、「北筒式土器が大部分で、その他では後期のいわゆる野幌式の土器片一個分(八片)が含まれていた」とされている。
 第3地点においてもまた、「平地住居址」が認められたとされており、ここでは焼土、木炭、石冠、深鉢形土器などが出土している。ここではさらに墳墓が三基発見されており、そのうち二基に「縄文土器」片がわずかに出土しているが、その構築年代は明らかにされていない。
 その他の第3地点からは、別表のように多様な時代の土器といろいろな種類の石器類が得られている14<第5~8表、第6~7・13・14・17~22・24図、写真12・14・15>。
 
第5表 西島松南D遺跡第2地点出土の土器,土器片分類表⑭
第6表 西島松南D遺跡第2地点出土の石器類分類表⑭
第7表 西島松南D遺跡第3地点出土の土器,土器片分類表⑭
第8表 西島松南D遺跡第3地点出土の石器類分類表⑭

 
M地点 西島松南B遺跡
 昭和三十八年八月、大場・石川らによって擦文式土器を伴う平面観が四辺形の竪穴式住居址二穴が発掘調査された。

 その報告14によると、第1号竪穴では窯、煙道、柱穴、小石を数十個使用してつくった炉などが発見され、擦文式土器、「土師系土器」、須恵器、放射状の排列をなしていた屋根材の炭化物、屋根葺き材料と思われるかや、よしの炭化物などが出土した。
 また、第二号竪穴住居址では、内側の両側に拳大の割石数個を排列した窯、煙道・柱穴などが認められ、小石数十個、擦文式土器、「土師系土器」片、放射状の排列をして残存する炭化した屋根組みの一部ほかが出土した<第37図、写真37・42>。
N地点 柏木川・縦貫自動車道路遺跡
 本遺跡は昭和四十五年五月より六月中旬にかけて藤本英夫らによって発掘調査がなされており、その報告が高橋正勝らにより『柏木川遺跡の墳墓と住居―北海道恵庭市における緊急調査―』と題して刊行されている。46これによれば、

 調査前の予想に反して、報告されているとおり、縄文時代中期の住居趾6軒、縄文時代晩期の墳墓2基、擦文時代の填墓1基、その他のピット一三〇の遺構と一四個の復元された土器、そして多数の土器片と石器を発掘した。
 調査された地区は、遺跡の一部分であり、発掘地区の西側には遺跡の中心が存在すると考えられ、性格を論ずることは危険であるが、中期に円筒文化の集落が営まれた。その後一五〇〇年ほど後に墳墓が作られ墓地となり、本州で弥生文化が始まるころ、また墓地となったように思われる。そして貴族政治が幾内において華やかなころ、低い土盛りをもつ墓が作られ、火山灰におおわれて今日に至っていた。
 また、そのうち擦文時代の墳墓一基とされているものについては次のようにいわれている。
 
 ピット77は、甕の口縁部の出土状態から盛り土があった可能性が強く、いわゆる北海道式古墳と思われる。盛り土の広がりは不明であるが、高さは1mを越えることはないと思われる。
 
 さらに、晩期の墳墓とされている二基のものについては次のように述べている。
 
 ピット30・45は、ともに楕円形プランで、約1mの深さをもっている。前者は一四〇×一一〇cm、後者は一一〇×九〇cmの大きさである。ともに精製土器と粗製土器を含む数個の土器が副葬されていた。ピット30からは、ほかにスクレイパーと大型のフレイクが壁に貼りついた状態で出土している。
 
 この他第Ⅲ期の住居址が六か所発掘されており、それから円筒上層式土器、石銛、砥石、矢柄研磨器、磨製石斧、石皿、チョッパーなどが出土している。
 加えて、グリッドからは北海道式石冠が得られている。46<第9~12・16・30図、写真3・9~11・16~20>
 なお、この地点を報告者は「柏木川遺跡」としているが、道教委登録表の柏木川遺跡は17地点となっており、これら両者の地点が一致しそうにない。
O地点
 山岸貢によって擦文式土器が採集されている(郷土資料室蔵)。なお、この地点は道教委登録番号87地点から西方向の近いところに当たる。

 P地点 城遺跡
昭和五十年七月二十六日より同年八月三日に亘り、札幌大学教員木村英明らによって、北大式土器片を伴う住居址が一か所発掘調査された。なお、その報告はまだ発表されていない<写真6・46>。

Q地点 茂漁遺跡
 「後北式と思われる」型式の土器片、北大式土器片、須恵器片、土師系土器片などの出土が報告されている。14

R地点 柏木東遺跡
 昭和七年に、曾根原武保、後藤壽一、河野広道、名取武光らによって発掘された遺跡で、その調査内容については考古学会の『考古学雑誌』第二十四巻第二号に掲載されている。また、大場・石川は昭和三十七年七月にここを再調査し、他に一墳墓を発掘している。

 以上のうち前者の調査では、古墳様墳墓を曾根原・後藤が一二基、河野広道が二基発掘し、そして、名取武光が竪穴様墳墓一基を調査している。それらの墳墓からは蕨手刀、刀子、鉄斧、鉄鎌、大形鉄(鉾?)、錐状鉄器、鑷子、飾環、砥石、土師器、須恵器などが出土している。
 また、大場・石川らの調査した墳墓は既に攪乱されており、土師器片が二点しか出土しなかった14<第2~4・23・29図、写真30・32・33・38~40>。
S地点 柏木沢遺跡
 大場・石川の報告によれば、「縄文文化後期の突瘤文土器」の破片が出土している。14なお、この地点は、道教委登録表で柏木沢遺跡とされている4地点と一致するか否か疑問である。

T地点 茂漁のチャシ・コツ
 このチャシ・コツについては、既に第二章第七節において後藤壽一による記述を紹介したので参照されたい。

 なお、ここでは昭和七年、名取武光により三基の竪穴様墳墓が発掘されている。その第1号墳墓では擦文式土器破片、第2号墳墓では擦文式土器、第3号墳墓では後北式類土器が出土している36<第38・39図、写真8>。
U地点 柏木B遺跡
 第Ⅳ期の土器片が出土しているといわれ、昭和五十二年中に発掘調査が予定されている<写真5>。

V地点
 山岸貢によれば、石斧、石鏃ようのもの、ほかが現在市街地となっているこのあたりに広く出土したという。また、それらのうちには、かつて人骨(頭骨)もみられたという。

W地点 恵庭公園遺跡
 昭和三十七年七月、大場・石川らにより竪穴住居址が一か所発掘されている。それには窯、煙道、柱穴などが発見されており、擦文式土器が出土している。また、同公園では現地形より数か所に竪穴住居址の窪みを認めることができる14<第34図、写真7>。

 なお、本地点は道教委登録表1地点に一致する。
X地点
 本地点は盤尻発電所裏に当たるところであり、本市山岸貢が一〇年ほど以前に円筒上層式土器破片を採集している。

Y地点 上島松遺跡
 昭和四十七年八月二十日より二週間に亘って、佐藤忠雄らが発掘調査を行った。その結果四基の古墳様墳墓が発掘され、刀子、鉄斧、完形の須恵器、土師器片を得た。同調査の内容については佐藤が『上島松遺跡―恵庭市上島松遺跡の畑地改良に係わる緊急発掘調査報告―』(本市教育委員会刊)と題して報告している42<第9表、第25~28・31~33図、写真4・21~29・36・41・45>。

 
第9表 恵庭市上島松遺跡の土層構成表42

写真45 上島松遺跡の土層
昭和48年7月発掘 佐藤忠雄撮影
写真46 城遺跡の土層
昭和51年7月発掘

Z地点
 本地点は漁川本流上流、軍艦岩のところであり、山岸貢によれば昭和四十八年ごろここより石斧、矢尻、黒曜石などが出土したという。なお、この地点については第1図に示していない。

 以上のほか次に示す97~102地点においても遺物や遺構が認められており、また、93地点及び96地点がチャシ・コツとして報告されている。
93地点 島松川左岸チャシ・コツ
 ここは道教委の前掲第4表における登録番号93地点で、同表では「島松チャシ」と呼ばれているが、後藤壽一はこれを「島松川左岸チャシ」として、次のように報告している。40

 
 字島松。平井広の所有地にあるチャシである。東西に伸びる自然丘陵を、東端は急傾斜をそのまま西方を削って濠を作り、丘陵そのものを孤立させてチャシと川をはさんで相対峙している点も面白い。十数年前は下の平地から望んでも空濠ははっきりと見られたが、今は樹木が繁ったため、かすかにその形をうかがい得るのみである。此処は前(南)に島松川をひかえて魚族の豊かな資源に、更に加えて現今も数ケ所から渾々と湧き出る湧水があり、(平井の話ではこの湧水は年中八度の水温を保っているという。)生活に最も適していた所のように思われる。この附近には、かつて多くの竪穴があったという。土器石器も散布し、平井もこれを多く所蔵している。
 
 なお、後藤は後述96地点を「島松のチャシ」としてその報告を次のようにしているが、この地点については第4表に掲載されておらず、その後に道教委に登録された。
96地点 島松のチャシ・コツ
 後藤壽一によれば、この地点を次のように紹介している。40

 
 島松川の流域ではあるが恵庭の分になる。島松川とこの川に沿うて三別へ上る村道と室蘭に走る国道とにはさまれて、垂直に聳え立つ岩壁を北に、南方陸続きには空濠を掘り、北は岩壁によって背水の陣、南は空濠によって防禦に備えたものである。此処はかつてその昔陸軍が演習のため散兵濠を掘ったり、機関銃座を作ったりしてあったが、その掘り上げた土の中に厚手縄文土器の破片が散列している。現在は樹木も茂り崖の下からはチャシの原形は明らかに見えないが、よじのぼって頂をよく見れば空濠はそのまま明らかに遺っており、昔掘られた散兵濠や機関銃座もそのまま追っている。今は某観光会社の観光地としての標識が立てられている。
 またこのチャシの下に、仁井別川の注ぐ辺にも土器の散列を見る。
 
97地点
 96地点の説明中に述べられている「仁井別川の注ぐ辺」をこの地点とする。なおこの地点については第1図に示していない。

98地点
 本市豊田菊雄によれば、柏木のこの地点、清永鶴市所有地よりかつて土器片などの遺物が発見されている。

99地点
 右豊田によれば、茂漁のチャシ・コツ川向い牧場の西尾所有地より、数年前、砂利採取の際などに土器片、断面円形の柱状石器(孝子堂恵庭博物館蔵)ほかが出土したという。

100地点
 山岸貢によれば、中島松の南十八号橋からほぼ北側のすぐ傍で、昭和三十年ごろ「アイヌの刀」が出土したという。

101地点
 佐藤忠雄によれば、昭和四十八年に古墳様墳墓四基を発掘した地点よりやや東側のすぐ近くで、後北式類江別式土器が出土したという。

102地点
 佐藤忠雄によれば、101地点の北東側すぐ傍より縄文時代後期(第Ⅳ期前半)の土器が出土しているという。

103地点
 佐藤忠雄によれば、102地点のほぼ北東寄り傍に竪穴式住居址群が認められるという。

 以上、第三章であげた遺跡所在地又は遺物の出土地点の数は総じて一二一か所である。しかし、第1図に示した各地点の正確な位置については今後検討を要する例が少なくない。また、今後も遺跡の発見される可能性はまだまだある。