集落は、南向きの斜面に営まれ、竪穴住居が数棟見つかっています。今から約1900年前頃と考えられます。住居の周辺からは、日常に使用していた土器のほか、「分銅形土製品(ふんどうがたどせいひん)」が多数出土しました。分銅形土製品は、瀬戸内海地域を中心に見られるもので、お守りやムラのまつりに使用されていたと考えられています。
集団墓は、集落の斜面上側にありました。墓の数は約100基で、今から約1800~1700年前頃と考えられます。墓の中には、ガラス玉や勾玉(まがたま)・管玉(くだたま)が副葬(ふくそう)され、遺体の人骨の一部が残っていました。周辺では、門田(かどた)A遺跡・山の神(やまのかみ)遺跡などの墓地が丘陵一帯で見つかっており、見晴らしの好い山の上に墓地がつくられていることがわかります。
伊豆迫山遺跡の竪穴住居
分銅形土製品 〔秤(はかり)の分銅に似ています〕