山の神古墳群(やまのかみこふんぐん) -古墳に葬られた家族-

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 古墳時代の前半期(約1700~1600年前頃)、備後(びんご)地方南部では「箱式石棺(はこしきせっかん)」と呼ばれる墓が盛んにつくられています。石棺という形式と花崗岩(かこうがん)の地山(じやま)に掘り込んだつくり方のため、人骨が残りやすいのが特徴です。出土した人骨を分析することで、当時の社会状況などさまざまなこと、特に家族のあり方がわかってきています。
 山の神第1号古墳(元町)では、3つの箱式石棺が見つかり、第1主体には男性人骨1体、第2主体には男女の成人人骨各1体、第3主体には幼小児の歯が残っていました。人骨の形質から、第1主体の男性と第2主体の男性は血縁関係にあることがわかりました。その後調査された山の神第2~4号古墳で出土した歯の形質から、被葬者(ひそうしゃ)の間には血縁関係が推定されています。山の神古墳群は、ムラの首長(地域のリーダー)とその家族が葬られた墓であることが明らかになりました。
 箱式石棺の中に複数の遺体が葬られている例は数多くあり、府中市内でも山の神第1号古墳のほか、同第2号古墳、用土町の城山(しろやま)第1号古墳などがあります。埋葬の仕方をみると、遺体の並べ方には、頭を同じ方向に向けたものと頭と足を逆さまに向けたものがあります。性別をみると、男性と女性を合葬する場合が多く、従来は夫婦と考えられていましたが、最近の研究から兄妹や姉弟など血縁関係にあることがわかってきました。複数の遺体を葬る場合は、前の遺体を整理して次の遺体を葬っており、追葬が行なわれていることもわかりました。山の神第1号古墳では、先に葬られた人骨の頭部が赤く塗られていますが、これは遺体が白骨化した段階で顔料(がんりょう)が塗られたことを示しています。このように埋葬された状況から、当時の風習(ふうしゅう)や人々の死者に対する感覚がうかがえます。
 弥生時代には、村人のほとんどは集団墓地に葬られていましたが、やがて首長(しゅちょう)やその家族などの限られた人が、特別に区画・土盛りされた墓に葬られるようになりました。
 古墳時代には、首長など限られた人のみが大型の古墳を築造しますが、古墳時代も終わり頃になると、小規模な古墳が全国的に増えていきます。これらの古墳にはムラの有力者が葬られており、古墳をつくれる階層が広まっていることを示しています。
 奈良時代(ならじだい)以降には、墓の発見例が減っていきますが、身分関係を厳格に維持する律令国家(りつりょうこっか)の成立によって、葬られる人の階層が再び限られるようになったと考えられます。また、発見される墓も家族の墓ではなく、個人の墓が中心で火葬が行われている例もあります。
 中世(ちゅうせい)は、一部の人の墓しか残っていませんが、江戸時代(えどじだい)の後半になると、墓石を持った墓がつくられはじめます。そして、現在のようにみんなが墓に葬られる時代へとつながっていきます。

山の神第1号古墳 〔石棺内に合葬(がっそう)された人骨〕