古墳の終焉と備後国(びんごこく)の誕生

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 7世紀になると前方後円墳は造られなくなり、それに代るように仏教寺院が建てられるようになります。このころ、中国や朝鮮半島の制度を手本にして、天皇(てんのう)を中心とする体制づくりが進められました。飛鳥(あすか)地方が政治の中心になったことから、この時代を飛鳥時代といいます。
 『日本書紀(にほんしょき)』天武(てんむ)天皇2年(673)の条に、「備後の国司(こくし)が亀石郡(現在の神石郡)で捕獲された白い雉(きじ)を都に献上した」という記述があります。「備後」の国が、記録に現れる最初の事例です。府中市を含む広島県東部地域から岡山県にかけては、古来「吉備(きび)」と呼ばれていましたが、8世紀には備前(びぜん)・備中(びっちゅう)・備後(びんご)・美作(みまさか)の4つの国(現在の県に相当)に再編成されるとともに、地方の行政制度が整えられてきました。国と国の線引きがどういう原理で行なわれたかよくわかっていませんが、政治的な領域、文化的な結びつきや地理的なまとまりなどが考えられます。