古墳時代の府中周辺では、前方後円墳などの広範囲を統括するような「首長墓(しゅちょうぼ)」(地域のリーダーの墓)は見当たりません。しかし、7世紀後半を過ぎると、畿内地方などに多く見られる1つの墳丘に2つの石室を持つ打堀山(うつぼりやま)B第2号古墳や、畿内(きない)地方以外ではほとんど出土例がない「鐶座金具(かんざかなぐ)」(棺に取り付ける環(かん)状の金具)を出土した東槙木山(ひがしまきやま)A第4号古墳など、特徴的な古墳が出現します。さらに、「藤原宮式(ふじわらきゅうしき)」瓦を出土する伝吉田寺(でんよしだでら)が建立され、亀ヶ岳周辺には古代山城である常城(つねき)も築かれます。国府が設置される前段階には、地域に急激な変化が認められ、勢力を増している状況がうかがえます。
時代は少し下りますが、平城京(へいじょうきょう)跡から出土した奈良時代初期の「木簡(もっかん)」の中に、「備後国葦田郡葦田里/氷高親王宮舂税五斗」と記された荷札があります。これは、葦田(あしだ)里(現在の府中市街地辺り)が氷高親王(ひだかしんのう)(後の元正(げんしょう)天皇)の封戸(ふこ)(役人や貴族などへの支給地)であったことを示しています。このような関係が以前から続いていたと考えると、府中における急激な変化の背景が見えてくるのではないでしょうか。中央との関係が深い理由としては、府中が備後における南北の文化の接点に位置することや、交通路の結節点であったことが関係していたと思われます。
打堀山B第2号古墳〔石室が2つ並ぶ〕
伝吉田寺跡出土瓦〔男性が描かれている〕