国府とは、国という行政区を治めるための役所が置かれた地のことで、国府には「国衙(こくが)」と呼ばれる役所の建物群が形成されて、そのなかで最も中核的な施設を「政庁(せいちょう)」(国庁(こくちょう))といいます。政庁は、門をもった築地塀(ついじべい)や堀(ほり)などの区画施設で周りを囲まれ、内側には正殿(せいでん)・脇殿(わきでん)・前殿(ぜんでん)・後殿(こうでん)などの掘立柱(ほったてばしら)建物や瓦葺礎石(かわらぶきそせき)建物が中庭(集会・儀式を行う重要な空間)を中心に規則的に配置されていました。全国の国府跡のなかには、発掘調査などによって、政庁が見つかっているものがいくつかあります。建物の規模については多少の違いがみられますが、配置はどの国でもほぼ共通しています。政庁の周辺にはさまざまな事務を行う庁舎、国府で必要なものをつくるための工房、物資を保管する倉庫、国府で働く役人が住む官舎、食材・食事を用意する調理場などが配置されていました。
下野国府復原図
国府には、都から「国司」と呼ばれる役人が派遣されました。国の長官である「守(かみ)」、長官の補佐をする「介(すけ)」、記録や文書の審査・作成に携わる「掾(じょう)」・「目(さかん)」(これらを「四等官(しとうかん)」といいます。)と、彼らを支える「史生(ししょう)」がいました。各国の面積や人口などの基準(大国(だいこく)・上国(じょうこく)・中国(ちゅうこく)・下国(げこく)と定められていました。)に応じて、派遣される国司の位階(いかい)や人数が規定されており、上国であった備後国の長官である守には、従五位下(じゅごいのげ)の位をもつ貴族がひとり任命されました。国司の仕事は、行政・司法・警察・軍事など広範囲にわたり、国司の下で約600人の職員が働いていました。また、国内の農民には、稲や農作物・特産品など物で納める税以外に、物資の運搬や兵役(へいえき)や土木工事・その他の雑務といった労働による税の負担が定められており、国府で労働に従事したり、都で天皇の警備をしたりする人々もいました。国府は、奈良時代から平安時代の約500年もの間、地域の政治・経済・文化の中心となり、情報・物資が交流して多くの人々が関わりをもつ場所であったのです。
復元した国府時代の衣装