平安時代中頃に編集された『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』には、「備後国のなかには14の郡、62の郷、3つの駅家(うまや)が置かれ、国府は芦田郡に置かれていた」と記録されています。「備後国府」は「備後国」を治める役所が置かれた地ということですが、政庁など国府の中核施設の正確な位置については記されていませんでした。
昭和57年(1982)から、備後国府の場所を明らかにするために発掘調査が開始され、府中市市街地の各地で試掘調査が実施されました。その結果、出口町から府中町・元町・鵜飼町までの芦田川北岸の山寄せ一帯に、国府に関連する遺構や遺物が集中して発見されていることがわかりました。この成果を引き継いで、現在まで元町地区を中心に調査が進められ、国府に関連する遺跡として、「ツジ遺跡」・「元町東遺跡」・「金龍寺東(きんりゅうじひがし)遺跡」・「ドウジョウ遺跡」など重要な遺跡が確認されています。