常城(つねき) ―幻の古代山城―

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 7世紀には朝鮮半島の覇権をめぐって、百済(くだら)、新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)、唐(とう)、日本などの諸国が入り乱れ争っていました。白村江(はくすきのえ)の戦い(663)で、唐と新羅の連合軍に敗れ、日本は撤退することになりますが、当時の超大国であった唐が日本へ進攻してくる事態に備え、大宰府(だざいふ)を中心に大野城(おおのじょう)や基肄城(きいじょう)などの山城を各地に築きました。朝鮮半島の山城築造技術を取り入れて築かれているため「朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)」と呼ばれています。
 『続日本紀(しょくにほんぎ)』養老(ようろう)3年(719)の条に、「備後国安那郡の茨城、葦田郡の常城を停む」という記事があります。「常城」は、その地名から福山市新市町常および府中市本山町七ツ池周辺一帯に存在したと推定されますが、明確な遺構は見つかっていません。昭和42~43年(1967~68)に、府中高等学校の豊元国(とよもとくに)教諭と地歴部が七ツ池周辺を現地踏査し、全国的な調査例がほとんどなかった当時としては、画期的な成果をあげることができました。しかし、各地での調査が進んだ現状では、整合しない点も出てきており、当時確認された遺構の大半は、今では古代山城に関係しないと考えられています。また、現在も確認調査が行われていますが、一帯には山上寺院の「青目寺(しょうもくじ)」の遺構も重複して存在し、常城の確認を困難にしています。

常城推定地の七ツ池周辺