調査の結果、奈良時代の礎石(そせき)建物、掘立柱(ほったてばしら)建物から礎石建物に改築された建物跡、瓦葺(かわらぶき)の築地塀(ついじべい)跡、遺跡周囲の溝、山陽道側溝の可能性がある直線的な溝、建物跡に先行する奈良時代前半の溝などが確認され、全体は93~94m×75~76mの大規模な施設であることが明らかになりました。赤色顔料の付着した瓦を含む大量の瓦(軒平瓦(のきひらがわら)、軒丸瓦(のきまるがわら)、面戸瓦(めんどがわら)、鬼瓦)、「土馬(どば)」をはじめとする呪(まじな)い用のミニチュア土製品、煮炊きに使う土器なども出土しました。また、遺跡内には古墳も確認されましたが、墳丘のほとんどは破壊され横穴式石室の一部が残されていました。
前原遺跡の「巨大建物」跡
馬をかたどった土馬
掘立柱建物については、柱穴が隅丸方形の1.2m以上の大きさで、広島県内でも最大級です。建物規模は、東西方向では柱が5本で、それぞれの間隔が2.4mずつの全長9.6m、南北方向では柱が7本以上で、それぞれの間隔が3.6mずつの全長21.6m以上になります。この大きさは県内でもほとんど調査例がないほどの規模で、「巨大建物」といってもいいでしょう。また、建物は総柱(そうばしら)という構造をとっており、「くら」(蔵、倉、庫)や居宅など床張りのものと考えられます。さらに、梁間(東西)と桁行(南北)の柱の間隔が極端に違うことも特徴です。
このような特徴をもつ大規模な建物は、野磨(のや)駅家と推定される兵庫県上郡(かみごおり)町の落地飯坂(おろちいいざか)遺跡や近江(おうみ)国府政庁(国府の中心施設)の東400mにある大津市の惣山(そうやま)遺跡などでも確認されており、官衙(かんが)(役所)関連の特殊な建物であることはほぼ間違いないでしょう。
また、この大規模な建物は、奈良時代中頃に掘立柱から礎石建物へと建て替えられていますが、この状況は、広島県府中町の下岡田(しもおかだ)遺跡(安芸(あき)駅)や兵庫県龍野市の小犬丸遺跡(布勢(ふせ)駅)と同様のあり方を示しており、前原遺跡が駅家であるという仮説を補強するものです。さらに、建物に先行する奈良時代前半の溝が見つかったことで、遺跡の中心部が整備された時期の手がかりが得られました。施設を整備・造成する際に破壊された横穴式石室の埋土から奈良時代の初め頃の土器が出土したことと考え合わせると、奈良時代には遺跡周辺が広範囲(現地形から推定すると南北約200m、東西約100m)に造成され、ついで奈良時代の中頃以降に、中心部の築地や建物が整備されたと思われます。
前原遺跡出土瓦