骨蔵器(こつぞうき) -火葬された人々-

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 奈良時代になると、「骨蔵器」と呼ばれる容器に火葬された遺骨を納めて葬る「火葬墓(かそうぼ)」が現れます。記録によると、日本で初めての火葬は道昭(どうしょう)というお坊さんで、文武(もんむ)4年(700)のことです。これは釈迦(しゃか)が荼毘(だび)に付されたことに由来し、その後火葬は僧侶にとどまらず、天皇をはじめとする身分の高い人や貴族、官人(役人)などにも見られるようになりました。しかし、当初は一般の人々が火葬されることはなく、限られた人にのみ採用されていたようです。その後、京(平城京)周辺だけで行われていた火葬も、次第に日本各地で見られるようになりました。これは、大陸から伝わった仏教が「鎮護国家(ちんごこっか)の思想」として地方へ広められたことや、「律令制度」により中央の政治体制に組み込まれたことなどが理由としてあげられます。
 広島県内では、現在まで30例余りの火葬墓が確認されていますが、府中市は特に多く見られます。伊勢地岡(いせぢおか)遺跡(本山町・府中町)、亀ヶ岳(かめがだけ)遺跡(本山町)、坊迫(ぼうさこ)C遺跡(元町)、角尾山(かくおやま)遺跡(広谷町)、ウロウギ遺跡・亀寿山(かめじゅやま)遺跡(中須町)です。火葬墓の発見場所は、ほとんどが丘陵の先端部分で、府中市街地を臨める好立地と云えます。しかし、いずれの事例も骨蔵器の壺が偶然に発見されているだけで、蓋に使われた土器や埋められていた素掘りの墓壙(ぼこう)(墓穴)や石囲いなどの遺構は確認されていません。
 火葬墓が府中市内に多いことについては、「備後国府」の存在を無視できません。国府では、国司だけでなく周辺の人々も仏教を信仰していたと思われ、その影響で多くの官人が火葬されていたことを想像するに難くありません。県内の火葬墓を見ても、役所跡や駅家跡・寺院跡などの近辺で確認されることが多く、律令国家や仏教との密接な関連をうかがわせています。

亀寿山遺跡の骨蔵器〔火葬人骨を収めていた〕