律令制度では、土地は基本的に国家の所有でしたが、次第に「荘園(しょうえん)」と呼ばれる私的な所有地が増えていきました。荘園のほとんどは、現地で土地経営していた有力農民などが、天皇家や有力な貴族・寺社に寄進したもので、税なども免除されていました。平安時代中期以降、現地で荘園を管理する「荘官(しょうかん)」や国府の実務を掌握していた「在庁官人(ざいちょうかんじん)」、国司の任期終了後も現地にとどまり土着化した下級貴族などは、やがて武装化して「武士」となっていきます。その一部は、天皇家や有力貴族と結びつきを深め、武士団(ぶしだん)を組織していきます。その代表が「平家(へいけ)」や「源氏(げんじ)」で、平安時代の末期には、保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱を経て、平家が政権の中枢を占めるようになります。その平家を滅ぼした源頼朝(みなもとのよりとも)は、鎌倉に幕府(ばくふ)を開き武士の時代が始まります。
鎌倉時代の国府や府中の様子がわかる史料は残っていませんが、備後国府の調査では、大規模な建物が集中する地域の周辺に、平安時代末から鎌倉時代にかけて小規模な建物が密集している状況が確認されています。鎌倉時代になっても、守護(しゅご)が執務・居住する「守護所(しゅごしょ)」などがおかれ、町が拡大をつづけ都市的な機能が維持されていたと思われます。周辺の丘陵では、伊豆迫山遺跡や坊迫遺跡でこの時代の土壙墓(どこうぼ)・木棺墓(もっかんぼ)が見つかり、副葬品として「湖州鏡(こしゅうきょう)」という中国で製造された鏡が出土しています。また、坊迫遺跡では寺院跡も確認されています。
伊豆迫山遺跡の木棺墓(SK16)
SK16出土の湖州鏡〔日本で鋳造されたもの〕