南北朝時代(なんぼくちょうじだい)の動乱

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 建武(けんむ)3年(1336)正月、足利尊氏(あしかがたかうじ)が京都で北畠顕家(きたばたけかねいえ)らに敗れ、西走して2月に鞆(福山市)へ到着します。そこで光厳上皇(こうごんじょうこう)(北朝)から院宣(いんぜん)を受けて、朝敵の名を返上したのを機に九州に下り、態勢を立て直した後に瀬戸内を東へ向かい、厳島神社や尾道・鞆を経てさらに東上し、5月末には湊川(みなとがわ)(神戸市)の合戦で勝利するなど激動の年でした。武家方有利で終結するかに見えたこの動乱も、やがて足利尊氏・直義(ただよし)兄弟の不和で混乱(観応(かんおう)の擾乱(じょうらん))が続きます。直義の養子直冬(ただふゆ)(尊氏の実子)が中国探題(ちゅうごくたんだい)の要職にあって、当初は鞆を本拠地にしたこともあり、備後では争いが長く続き混乱していました。この時代は、日本史上での大きな変換点となりました。