有福城(ありふくじょう)と青目寺(しょうもくじ)

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 建武3年6月、津口荘(つくちしょう)の地頭(ぢとう)山内観西(やまのうちかんぜい)は、備後守護の岩松頼宥(いわまつらいゆう)から有福城(上下町有福)に立て籠もっている竹内兼幸(たけうちかねゆき)を討伐するよう命令を受けました。竹内兼幸は中世備後国衙(在庁という)の役人であったとおもわれ、同年9月には、青目寺の別当(べっとう)(寺務統轄長)弁房(べんぼう)らとともに、山内氏を攻撃しています。岩松頼宥は足利尊氏(武家)方の有力部将、竹内兼幸・弁房は公家方(南朝)になります。竹内氏を攻撃した武家方のなかには、長谷部氏(長氏)がいました。長氏は、翁山(おきなやま)(上下町上下)に城を構えていた豪族です。このように、備後地方でも公家方・武家方に分かれて戦闘が繰り広げられており、一族内、あるいは近隣の者同士でも争っていました。その端緒は、南朝方の桜山四郎が吉備津神社(きびつじんじゃ)(福山市新市町)で挙兵したことですが、伝承では上下町佐倉も桜山氏ゆかりの地と云われています。
 正平(しょうへい)17年(1362)11月、安芸の豪族(ごうぞく)吉川経政(きっかわつねまさ)が直冬を助けるために「備後国符中」に到着したという記録があります。「府中」という地名の史料上の初見です。翌12月には、符中・宮内・矢野でも戦いがありました。動乱を経て、未だ命脈を保っていた古代的な秩序の崩壊が一気に進み、府中周辺でも、「在庁」官人という古代的な権威を拠り所にしていた竹内氏、古代以来の大きな寺である青目寺、吉備津神社などが衰退することになります。青目寺の「十一面観音像(じゅういちめんかんのんぞう)」はこの時代のものと考えられ、弁房ら僧兵がこれに合掌して戦いに赴いた姿が想像されます。
 中世は、戦さや飢饉などが続き、人々が死と常に隣り合わせの時代であったせいか、仏教が庶民の間にも浸透してゆきました。府中市重要文化財に指定されている座禅堂(ざぜんどう)などがある上下町善昌寺(ぜんしょうじ)は、正中(しょうちゅう)2年(1325)に当地の豪族斎藤美作守景宗(みまさかのかみかげむね)が弁翁(べんおう)という僧侶を迎えて開かれました。

甲奴郡のほぼ中央に立地した有福城


青目寺の十一面観音像