正平(しょうへい)17年(1362)11月、安芸の豪族(ごうぞく)吉川経政(きっかわつねまさ)が直冬を助けるために「備後国符中」に到着したという記録があります。「府中」という地名の史料上の初見です。翌12月には、符中・宮内・矢野でも戦いがありました。動乱を経て、未だ命脈を保っていた古代的な秩序の崩壊が一気に進み、府中周辺でも、「在庁」官人という古代的な権威を拠り所にしていた竹内氏、古代以来の大きな寺である青目寺、吉備津神社などが衰退することになります。青目寺の「十一面観音像(じゅういちめんかんのんぞう)」はこの時代のものと考えられ、弁房ら僧兵がこれに合掌して戦いに赴いた姿が想像されます。
中世は、戦さや飢饉などが続き、人々が死と常に隣り合わせの時代であったせいか、仏教が庶民の間にも浸透してゆきました。府中市重要文化財に指定されている座禅堂(ざぜんどう)などがある上下町善昌寺(ぜんしょうじ)は、正中(しょうちゅう)2年(1325)に当地の豪族斎藤美作守景宗(みまさかのかみかげむね)が弁翁(べんおう)という僧侶を迎えて開かれました。
甲奴郡のほぼ中央に立地した有福城
青目寺の十一面観音像