米作りのはじまり

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 縄文時代の終わり頃になると、米作りが大陸から伝わり、鉄や青銅(せいどう)などの金属も日本列島へ入ってきました。米作りは九州から東北まで伝わり、人々の生活は、狩猟(しゅりょう)・採集(さいしゅう)中心のものから農耕へと変化しました。当初は低湿地を利用して米を栽培していましたが、後には用水を引き、水田を拡大し、生産力を上げていきました。
「石包丁(いしぼうちょう)」で刈り取った稲は「高床倉庫(たかゆかそうこ)」に貯蔵され、「弥生土器(やよいどき)」という素焼きの器で煮炊きをし、鉄からは農工具などの実用品をつくり、青銅は「銅鐸(どうたく)」など祭(まつ)りの道具に利用されました。この時代を「弥生時代(やよいじだい)」と呼んでいます。
 米作りを始めてから人々の生活は安定し、人口が増加することで「ムラ」ができました。やがて、ムラのなかには貧富(ひんぷ)の差や身分の違いが生まれ、ムラ同士が争いながら「クニ」という大きな集まりになったと考えられています。そして、クニをまとめる力をもったものが王となりました。そのころの日本列島には百以上のクニがあり、そのなかで多くのクニを従えて強大な力をもった「邪馬台国(やまたいこく)」では、「卑弥呼(ひみこ)」という女王が占いなどの呪術(じゅじゅつ)によって人々を治めていました。卑弥呼は中国(魏(ぎ))まで使いを送り、「親魏倭王(しんぎわおう)」の印や鏡をもらったと中国の歴史書「魏志」の倭人伝に書かれています。

石庖丁
ホリノ河内遺跡(元町)出土

 
 ―府中市では、弥生時代中期から後期にかけての集落や、弥生時代後期から古墳時代始め頃の集団墓が、市街地を望む丘陵上で多数確認されています。