『日本書紀(にほんしょき)』天武(てんむ)天皇2年(673)の条に、「備後の国司(こくし)が亀石郡(現在の神石郡)で捕獲された白い雉(きじ)を都に献上した」という記述があります。「備後」の国が、記録に現れる最初の事例です。
府中市を含む広島県東部地域から岡山県にかけては、古来「吉備(きび)」と呼ばれていましたが、8世紀には備前(びぜん)・備中(びっちゅう)・備後(びんご)・美作(みまさか)の4つの国(現在の県に相当)に再編成されるとともに、地方の行政制度が整えられました。国と国の線引きがどういう原理で行なわれたかよくわかっていませんが、政治的な領域、文化的な結びつきや地理的なまとまりなどが考えられます。
旧国名図
-古墳時代の府中周辺では、広範囲を統括するような「首長墓(しゅちょうぼ)」(地域のリーダーの墓)は見当たりません。しかし、7世紀後半を過ぎると、畿内地方などに多く見られる1つの墳丘に2つの石室を持つ打堀山(うつぼりやま)B第2号古墳や、畿内(きない)地方以外ではほとんど出土例がない「鐶座金具(かんざかなぐ)」(棺に取り付ける環(かん)状の金具)を出土した東槙木山(ひがしまきやま)A第4号古墳など、特徴的な古墳が出現します。さらに、飛鳥地方の寺院「川原寺」や宮都「藤原宮(ふじわらきゅう)」で葺かれた瓦に類似する軒瓦を出土する伝吉田寺(でんよしだでら)(元町)が建立され、亀ヶ岳周辺には古代山城である常城(つねき)が築かれたとされます。国府が設置される前段階に、府中地域に急激な変化が認められます。
時代は少し下りますが、平城京(へいじょうきょう)跡から出土した奈良時代初期の「木簡(もっかん)」の中に、「備後国葦田郡葦田里/氷高親王宮舂税五斗」と記された荷札があります。これは、葦田(あしだ)里(現在の府中市街地辺り)が氷高親王(ひだかしんのう)(後の元正(げんしょう)天皇)の封戸(ふこ)(役人や貴族などへの支給地)であったことを示しています。皇族とのこのような関係も、府中における急激な変化に関わっていると考えられます。
こうした背景と、備後の南北の文化の接点、交通路の結節点であったことが関係して、備後国の国府が府中に設置されたのではないでしょうか。
打堀山B第2号古墳(鵜飼町)
川原寺式軒丸瓦・藤原宮式軒丸瓦
伝吉田寺跡周辺(元町)から出土した瓦