備後国府跡(びんごこくふあと)とその調査

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 平安時代中頃に編集された『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』には、「備後国のなかには14の郡、62の郷、3つの駅家(うまや)が置かれ、国府は芦田郡に置かれていた」と記録されています。「備後国府」は「備後国」を治める役所が置かれた地ということですが、政庁など国府の中核施設の正確な位置については記されていませんでした。
 昭和57年(1982)から、備後国府の場所を明らかにするために発掘調査が開始され、府中市市街地の各地で確認調査が実施されました。その結果、出口町から府中町・元町・鵜飼町までの芦田川北岸の山寄せ一帯に、国府に関連する遺構や遺物が集中して発見されていることがわかりました。この成果を引き継いで、現在まで元町地区を中心に調査が進められ、「ツジ・元町東遺跡」・「金龍寺東(きんりゅうじひがし)遺跡」・「ドウジョウ遺跡」など国府に関連する重要な遺跡が確認されています。
 
ツジ遺跡・元町東遺跡
 ツジ遺跡・元町東遺跡は、元町地区を南北に流れる砂川(すながわ)(音無川(おとなしがわ))の東側に広がる、奈良時代から平安時代にかけての遺跡です。調査当初は別々の遺跡としていましたが、現在では一連の遺跡の広がりとして考えられるようになりました。
 発掘調査の結果、多くの掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)や井戸などが見つかっていています。建物施設群は百メートルほどの区画溝などで計画的に仕切られており、その区画の中で方位を合わせて配置され、同じ場所で数度の建替えが行われているといった特徴が見られます。

大型建物跡(ツジ遺跡0203T)

 出土遺物としては、須恵器(すえき)・土師器(はじき)を中心とした大量の日用雑器のほかに、特殊で特徴的な遺物が多く出土しています。「奈良三彩(ならさんさい)」の蓋付小壺(ふたつきこつぼ)は、奈良時代にわずかに作られた三色(緑・黄・白)の陶器です。この小壺の中には、ガラス製の小玉(こだま)が54個納められており、建物などを建築する前に行う地鎮(ぢちん)の儀式に伴い埋められたものだと考えられています。他にも、「厨(くりや)」(食事の用意や調理をする場所)という文字が墨で書かれている「墨書(ぼくしょ)土器」や円面硯(えんめんけん)・風字硯(ふうじけん)・転用硯などの陶製の硯(すずり)、役人が着用したベルトに付けられていた飾りである「腰帯具類(ようたいぐるい)」、印面に「賀(が)・友(ゆう)・私(し)・印(いん)」の四文字が陽刻された銅印、当時の高級陶器である「緑釉陶器(りょくゆうとうき)」や中国などから輸入された白磁や青磁などの貿易陶磁器があります。緑釉陶器は、9世紀のはじめから10世紀の終わりにかけて、東海地方や京都府・滋賀県などで焼かれた緑色の上薬がかかった陶器です。貿易陶磁器類は大量に輸入される11~12世紀を中心とした時代のもののほかに10世紀段階の古い時代のものも多く出土しています。

奈良三彩


陶製の硯


緑釉陶器


貿易陶磁器(白磁・青磁)


腰帯具類


銅印

 
金龍寺東遺跡
 金龍寺東遺跡は、元町地区の西端に広がる奈良時代から平安時代にかけての遺跡です。
 平成3年(1991)からの断続的な調査で、礎石建物跡や大型の掘立柱(ほったてばしら)建物などが集中して見つかっています。礎石建物は石積みの基壇(きだん)を持ち、掘立柱建物には地面から直に板壁を巡らせたものもありました。また、庭園の池と見られる遺構も見つかっています。
 遺物は、鳥の姿が刻まれた鬼瓦(おにがわら)などを含む大量の瓦のほか、金属器を模倣した須恵器、墨書土器(ぼくしょどき)、硯、唐三彩(とうさんさい)、緑釉陶器などが出土しています。これら貴重な遺構や遺物が発見されたことから、この遺跡は「府中市指定史跡」になっています。

板壁付建物跡


石積基壇と階段跡


鬼瓦〔鳥が刻まれている〕

 
ドウジョウ遺跡
 ドウジョウ遺跡は、元町地区を南北に流れる砂川(音無川)と金龍寺東遺跡の間に広がる奈良時代から平安時代にかけての遺跡です。
 これまでの調査で、国府関連施設を取り囲むように区画していたと考えられる奈良時代の大溝が見つかっています。この区画溝は、幅約2.5mの2つの溝が東西方向に並行して掘られていました。この遺跡は、ツジ遺跡や金龍寺東遺跡に比べ、あまり調査が進んでいませんが、今後の調査によって、国府に関係する大きな発見が期待できる遺跡です。

ドウジョウ遺跡(元町)区画溝

 
市街地に広がる遺跡
 昭和63年(1988)、元町地区の砂川(音無川)の西側で、都市計画街路の整備に伴い発掘調査が行われ、倉庫と考えられる平安時代の掘立柱建物や井戸などが見つかりました。柱の根元部分や井戸枠などの木材が、腐らずに当時の状態を保ったままで出土しました。また、井戸は使用を中止して埋め立てられたようですが、その土の中に完全な形の土器が多く納められていました。これは、井戸を廃棄する際に行われた儀式に関わるものと考えられます。
 この他にも、市街地には国府の時代の遺跡が数多く存在しています。府川町の文化センターの建設工事に伴って、鳥居(とりい)遺跡から木製の人形(ひとがた)が出土しています。これには人の顔が描かれており、病気など身体の災いをお祓いする儀式に「呪(まじな)い札(ふだ)」として使われたものと考えられます。

人形
鳥居遺跡(府川町)出土

 備後国府跡の発掘調査では、国府附属工房の系譜を受け継いだ鋳物に関係した遺構・遺物が多く確認されます。また、中世には府中に「国分寺助国(こくぶんじすけくに)」という刀鍛治の一党がいたという説があり、近代金属工業の素地になった可能性があります。
 以上のような調査成果は、国府に関係する施設が元町周辺に存在していたという状況証拠であり、そのうち、政庁などの国府の中心施設が明らかになって行くでしょう。備後国府は、府中の原点ともいうべき遺跡で、解明が待たれています。