前原遺跡(まえばらいせき)と古代山陽道(こだいさんようどう)

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 前原遺跡は、昭和10年(1935)の福塩線建設に伴う工事で、奈良時代の瓦が大量に出土したことにより発見されました。当初は寺院跡と考えられ、「父石廃寺」や「前原廃寺」などと呼ばれていましたが、現在では「葦田駅(あしだのうまや)」と考える説が有力になっています。駅家(うまや)説は、「マエハラ」という地名が「ウマヤ」→「マヤ」→「マエ」とつながることや、大量に出土している瓦を他地域の瓦文様と比較研究した結果から推定されているものです。
 駅家とは、古代の官道(かんどう)に沿って一定の距離ごとに置かれていた施設で、乗継ぎ用の馬が常置されており、現在の高速道路のサービスエリアにあたります。都と大宰府を結ぶ古代山陽道は最も重要な路線とされ、外国からの使節が通ることもありました。山陽道では、外国使節の宿泊所も兼ねていて迎賓館(げいひんかん)的な性格もあったため、瓦葺き・白壁・朱塗りの柱であったと伝えられています。布勢駅(ふせのうまや)に推定されている兵庫県たつの市の小犬丸(こいぬまる)遺跡では、大量の瓦のほかに、表面に白い土が付着した壁土や赤色顔料の付着した瓦が出土しています。

前原遺跡出土瓦
〔備後国府系と言われる軒瓦〕

 
備後の山陽道
 古代の山陽道は、現在の福山市神辺町、駅家町から府中市、尾道市御調町を東西に貫いていたと考えられますが、具体的な経路や駅家(うまや)推定地についてはさまざまな説があります。そのなかで推定地がほぼ一致しているのは、品治駅(ほんじのうまや)と推定されている福山市駅家町の最明寺跡(さいみょうじあと)遺跡(中島(なかじま)遺跡)です。現地では以前から瓦が大量に採集され、地表観察で基壇(きだん)状の盛り上がりも確認できます。遺跡の南に隣接する最明寺跡南遺跡では、県道建設に先立って発掘調査が行われ、駅家を特徴付ける「国府系瓦」と呼ばれる文様をもつ瓦が大量に出土しました。前原遺跡で大量に出土する瓦も国府系瓦であるため、駅家跡と推定されています。
 
発掘調査の成果
 前原遺跡は、平成6年(1994)から平成18年(2006)まで断続的に発掘調査が行われました。

前原遺跡遠景(朱線は遺跡範囲)

 調査の結果、奈良時代の礎石(そせき)建物、掘立柱(ほったてばしら)建物から礎石建物に改築された建物跡、瓦葺(かわらぶき)の築地塀(ついじべい)跡、遺跡をとりかこむ溝、山陽道側溝の可能性がある直線的な溝、建物跡に先行する奈良時代前半の溝などが確認され、全体は93~94m×75~76mの大規模な施設であることが明らかになりました。赤色顔料の付着した瓦を含む大量の瓦(軒平瓦(のきひらがわら)、軒丸瓦(のきまるがわら)、面戸瓦(めんどがわら)、鬼瓦)、「土馬(どば)」をはじめとする呪(まじな)い用のミニチュア土製品、煮炊きに使う土器なども出土しました。また、遺跡内には古墳も確認されましたが、墳丘のほとんどは破壊され横穴式石室の一部が残されていました。
 掘立柱建物については、柱穴が隅丸方形の1.2m以上の大きさで、広島県内でも最大級です。建物規模は、東西方向では柱が5本で、それぞれの間隔が2.4mずつの全長9.6m、南北方向では柱が7本以上で、それぞれの間隔が3.6mずつの全長21.6m以上になります。この大きさは県内でもほとんど調査例がないほどの規模で、「巨大建物」といってもいいでしょう。また、建物は総柱(そうばしら)という構造をとっており、「くら」(蔵、倉、庫)や居宅など床張りのものと考えられます。さらに、東西と南北方向の柱の間隔が極端に違うことも特徴です。
 このような特徴をもつ大規模な建物は、野磨(やま)駅と推定される兵庫県上郡(かみごおり)町の落地飯坂(おろちいいざか)遺跡や近江(おうみ)国府政庁(国府の中心施設)の東400mにある大津市の惣山(そうやま)遺跡などでも確認されており、官衙(かんが)(役所)関連の特殊な建物であることはほぼ間違いないでしょう。
 また、この大規模な建物は、奈良時代中頃に掘立柱から礎石建物へと建て替えられていますが、この状況は、広島県府中町の下岡田(しもおかだ)遺跡(安芸(あき)駅)や兵庫県たつの市の小犬丸遺跡(布勢(ふせ)駅)と同様のあり方を示しており、前原遺跡が駅家であるという仮説を補強するものです。さらに、建物に先行する奈良時代前半の溝が見つかったことで、遺跡の中心部が整備された時期の手がかりが得られました。施設を整備・造成する際に破壊された横穴式石室の埋土から奈良時代の初め頃の土器が出土したことと考え合わせると、奈良時代初めには遺跡周辺が広範囲(現地形から推定すると南北約200m、東西約100m)に造成され、ついで奈良時代の中頃以降に、中心部の築地や建物が整備されたと思われます。

前原遺跡の「巨大建物」跡


土馬〔病気や災害を防ぐまじないに使用〕

 
備後国府と前原遺跡
 古代山陽道は、当時の国の中心である国府に近接した地域を通っていたと考えられますが、正確な位置はわかっていません。前原遺跡を駅家と考えた場合、遺跡の西側に山陽道が通っていたと推定されますが、平野部が狭い現地形から考えると、駅家(うまや)・山陽道とも立地条件が厳しいところに設置されていたことになります。国府にとって、西の入口にあたる芦田駅は特に重要な地点であり、駅家(うまや)や山陽道の設置にあたっては、駅間距離や通行の便だけでなく、国府の存在も背景として大きく影響していたと想定されます。