[4中世から近世まで]

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鎌倉時代
 元暦(げんりゃく)2年(1185)に平氏(へいし)を倒した源氏(げんじ)が、やがて鎌倉(かまくら)に幕府(ばくふ)を開きます。この幕府が置かれた地名から、以後約150年間を鎌倉時代(かまくらじだい)といい、700年続く武家の政治が始まった時代になります。畿内地方の貴族や寺社などの荘園領主(しょうえんりょうしゅ)のもとに、各地の荘園から物資が運ばれ、人々の往来もさかんになり、交通・物流が活発化しました。この時代には、軍記物(ぐんきもの)や随筆、肖像画、彫刻、建築などに特徴がある文化が生まれ、また、地方の武士や庶民に布教した鎌倉新仏教も生まれました。

坊迫C遺跡 寺院跡(鎌倉~室町時代)

 
室町時代 
 元弘(げんこう)3年(1333)に鎌倉幕府が倒れた後に、足利氏(あしかがし)が京都に開いた室町幕府(むろまちばくふ)の続いた約240年間を室町時代といいます。2つの朝廷(ちょうてい)が戦う南北朝(なんぼくちょう)の争いで始まり、戦国大名(せんごくだいみょう)の争いで終わったこの時代は、朝廷(ちょうてい)・貴族・寺社の力が弱まる一方で、地域の人々は結び付きを強めて自治的な村や町を作り、社会の仕組みが大きく変わりました。
 また、この時代には、貴族・武家・庶民の文化や中国の文化がまじわり、今の日本文化の基礎ができあがりました。家屋の書院造(しょいんづくり)や、茶(ちゃ)の湯(ゆ)、生(い)け花(ばな)、能(のう)、狂言(きょうげん)などができたのもこの頃です。なお、この時代の末頃には、鉄砲とキリスト教の伝来に代表されるように、日本がヨーロッパと出会うことになりました。
 
安土桃山時代 
 元亀(げんき)4年(1573)に室町幕府が倒れた後に、織田信長(おだのぶなが)と豊臣秀吉(とよとみひでよし)が政権をとっていた約30年間を、信長の安土城(あづちじょう)と秀吉の伏見桃山城(ふしみももやまじょう)の名から、安土桃山時代(あづちももやまじだい)と呼ばれます。戦国大名を平定し、天下が統一された時代です。信長は、南蛮文化と呼ばれたヨーロッパの文化を受け入れました。ヨーロッパは、世界規模で貿易を始めており、日本も世界とつながることになりました。
 
江戸時代 
 慶長(けいちょう)8年(1603)に徳川家康(とくがわいえやす)が江戸幕府(えどばくふ)を開き、幕府が続いた約260年間を江戸時代(えどじだい)といいます。将軍を頂点とした幕府が全国の大名(だいみょう)を支配し、大名はそれぞれの藩を治めていました。生産を増やすためにさまざまな努力がなされ、産業・経済が発展しました。そして、経済の発展につれて、商人など町人が力を持つようになります。200年ほど鎖国(さこく)した影響で、日本独自の文化が発展し、また、長崎に来るオランダ人から西洋の科学や文化の知識がもたらされて、科学への関心が高まりました。教育の機関として、藩校(はんこう)や私塾(しじゅく)が置かれ、寺子屋(てらこや)ではこどもたちが読み書きや計算を学びました。
 
 -府中市では、元禄13年(1700)に上下町が江戸幕府直轄地となり、上下に代官所が置かれ、現在に残る白壁の町並みの基礎がつくられました。また、享保2年(1717)には、幕府領の一部が豊前中津藩領となり、府中市は明治時代になるまで、福山藩領、広島藩領、幕府領、中津藩領に分かれていました。

行縢町の藩境石
(左:従是西北中津藩領 右:従是南福山領)


下川辺の藩境石
(左:従是西芸州領 右:従是西廣嶋領)