八尾山城(やつおやまじょう)と守護山名氏(しゅごやまなし)

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 永享(えいきょう)9年(1437)8月1日、山名満熙(やまなみつひろ)(持熙(もちひろ))は、将軍足利義教(よしのり)に遠ざけられていた大覚寺義昭(だいかくじよしあき)(義教の弟)を擁して備後国府城で挙兵したものの敗れて、満熙の首級は京(平安京)へ届けられました。異母弟である山名持豊(やまなもちとよ)(後の宗全(そうぜん))が、備後などの守護を務める山名家の家督(かとく)を継いだことに対して不満に思ったことが発端です。この出来事は公家たちの日記にしたためられていることから、京でも噂になった大事件だったことがうかがえます。
 この「備後国府城」とは、かつて国府があった地の背後にそびえ立つ八尾山城(本山町・出口町)を指していると考えられます。八尾山城の城主については、江戸時代初め頃の書物には山名伊豆守・宮田備後守、江戸時代中頃のものには山名清氏と記されています。宮田氏は山名氏の一族で、「応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱」(1467~77)では、西軍の主将山名宗全に代わり八尾山城に入り、備後の西軍を指揮していました。八尾山城は守護山名氏と関わり深い城でした。

市街地から八尾山城を望む
[左:八尾山城 中央:幡立山城 右:亀ケ岳]

 南北朝時代以降、備後守護は神辺城(かんなべじょう)を拠点にしたと言われていますが、実は確実な根拠があるわけではありません。例えば、暦応(りゃくおう)元年(1338)3月に浄土真宗(じょうどしんしゅう)の著名な僧侶である存覚上人(ぞんかくしょうにん)が、「備後国府の守護の面前で日蓮宗(にちれんしゅう)の僧と宗教論争をした」という史料があり、守護が備後国府にいたことを示しています。ここでいう備後国府とは単なる地名で、他国の例でも、武家の地方支配の拠点である守護所(しゅごしょ)は、多くは国衙(こくが)の近くに構えられています。
 備後の守護は短期間に次々と交替していましたが、15世紀に入った頃に但馬守護山名時熙(やまなときひろ)が備後守護も兼ねたことから、備後守護は山名氏が継承するようになりました。山名満熙が国府城を奪取したのは、この城が守護の城というシンボル的存在であったからと考えられます。
 神辺に守護所が置かれたとすれば、その背景には、古代以来の山陽道が神辺から尾道に向かうようになり府中を通らなくなったことや、国府城の事件が原因で府中から移転したと考えることもできます。伝承によると、神辺城は嘉吉(かきつ)3年(1443)に再築されたということです。
 なお、元町の住宅団地造成工事に先立って行われた池(いけ)ノ迫(さこ)遺跡の発掘調査では、砦(とりで)の跡が見つかり、深い堀切(ほりきり)がつくられていました。これは国府城をめぐる戦いの時か、少し後の応仁・文明の乱の頃に築かれた可能性があります。この時代にも、武家が備後全体を支配するうえで、「府中」の掌握は大きな意味を持っていたと思われます。

池ノ迫遺跡の堀切


市街地の背後にそびえる八尾山城


八尾山城の発掘調査[東端郭]


出土した鎧の小札と矢じり