上下の臨済宗(りんざいしゅう)寺院

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 中世には戦いや飢饉が打ち続き、人々が日常的に死と隣り合わせだったせいか、仏教が庶民の間にも普及していった時代です。
臨済宗は、室町幕府に庇護された五山(ござん)系と、それを潔しとしない林下(りんか)系に大別されます。幕府は中国の制度にならい、天龍寺(てんりゅうじ)以下の京都五山、建長寺(けんちょうじ)以下の鎌倉五山、それらの上に南禅寺(なんぜんじ)の計11か寺を「五山」としました。五山の下に「十刹(じっせつ)」、さらに「諸山(しょざん)」という寺格を設定し、幕府がこれらの寺を管理・保護しました。
 備後では十刹に尾道の天寧寺(てんねいじ)、諸山に善祥寺など5か寺がありました。この善祥寺は上下町上下の善昌寺(ぜんしょうじ)を指していると考えられます。同寺は正中(しょうちゅう)2年(1325)、当地の豪族斎藤美作守景宗(みまさかのかみかげむね)という人が弁翁(べんおう)という僧を迎え開かれたという伝承を持っています。弁翁智訥(べんおうちとつ)は当時の臨済宗の中で一派をなした紀伊(きい)の興国寺(こうこくじ)を本拠とする法燈派(ほうとうは)の著名な僧です。
 諸山格を得るということは、その寺の大檀那(だんな)である豪族にとって、将軍・幕府に接近できるという機会でもありました。史料に寛正(かんしょう)元年(1460)に善祥寺住持(じゅうじ)任命のことが見られるので、その頃までには諸山の寺格を得ていたようです。その背後で、斎藤氏あるいは長氏が大檀那として奔走したかも知れません。

弁翁智訥禅師木像
(座禅堂内)

 五山系の寺は室町幕府の弱体化とともに衰亡し、宗旨替えをして存続した寺も多く、善昌寺も曹洞宗(そうとうしゅう)で中興されました。
 上下町有福の保泉寺(ほうぜんじ)、小堀の善応寺(ぜんおうじ)、階見の養源寺(ようげんじ)などは臨済宗永源寺(えいげんじ)派に属しています。永源寺は現在の臨済宗15本山の1つで、滋賀県の山間にある寺です。そういう立地を見ても、宗祖寂室元光(じゃくしつげんこう)が都の権力に接近することを嫌った態度が分かります。この派は林下の禅の代表的な一派です。
 寂室和尚は備後とも関わりが深い人で、中国から帰途の建武(けんむ)元年(1334)、深津郡吉津(よしづ)(福山市)に立ち寄り、都に戻らず長年備後から備中(びっちゅう)・美作(みまさか)地方を説いて回りました。現在でも備後では、世羅郡・甲奴郡から神石郡にかけて永源寺派の寺があります。
 上下町の永源寺派寺院はいずれも寂室和尚の弟子知庵元周(ちあんげんしゅう)が関わったという寺伝を持っています。この人は神石郡の永聖寺(えいしょうじ)を拠点にしたといい、師の寂室和尚が中国で学んで来た教えを、早速備後の高原地域で説いて歩いたのでした。
 臨済宗は、坐禅(ざぜん)により自己の内にある仏性(ぶっしょう)を見つめようとするいわゆる禅宗(ぜんしゅう)の一派です。当時の武士たちの多くが禅宗に魅力を感じていました。戦いという極限の動の状態の連続にあって、坐禅という静の状態を求めたのでしょう。

中世の禅堂が残る善昌寺


臨済宗永源寺派の保泉寺