中世(ちゅうせい)の石造物

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 人々は、石を加工してさまざまなものを造ってきました。中世は、石垣の普請(ふしん)や礎石を使った建物が増加し、仏教の普及に伴い仏塔(ぶっとう)や墓塔(ぼとう)が大量に造られたので、石の加工技術が大いに高まった時代でした。府中市内には、県・市文化財に指定された貴重な石造物が多く見られます。
 本山町の青目寺(しょうもくじ)塔婆(県指定)は、正応(しょうおう)五年(1292)の銘がある花崗岩(かこうがん)製の五層塔です。塔(塔婆(とうば))は、もともと寺の伽藍(がらん)の中心に大きな木造建築物として建てられますが、石製の塔は供養塔として造られたことが多いようです。境内の水鉢(みずばち)(市指定)は花崗岩で造られた八角形の鉢で、側面に蓮華文(れんげもん)が刻まれています。天文(てんぶん)二四年(1555)の銘があります。
 青目寺西方の山中にある「伝うしの塔」(市指定)は、その形態から鎌倉時代初期にまで遡ると考えられる五輪塔で、県内最古級といわれています。青目寺の下方に鎮座する日吉神社(ひよしじんじゃ)にも、正和(しょうわ)四年(1315)の銘が入った宝塔(ほうとう)(県指定)があります。元町の坊迫にも、南北朝時代頃とみられる宝塔(市指定)が残されています。宝塔は残された数が少なく、珍しいものです。これらの塔はすべて墓ですが、その主は明らかになっていません。
 府川町の日吉神社鳥居(市指定)は、鎌倉末から室町時代初めに創建されたと考えられ、県内最古級といえます。宝暦(ほうれき)十年(1760)に再建したことが刻銘されています。
 鵜飼町の常福寺(じょうふくじ)水鉢(市指定)には、天文十一年(1542)の銘や「尾道住大工左衛門」と刻んであり、尾道石工の作製が確認できる県内最古の例です。
 上下町にも貴重な石造物が残されています。矢野の安福寺(あんぷくじ)には、正平(しょうへい)十年(1355)銘の宝篋印塔(ほうきょういんとう)(県指定)があります。「正平」は南朝年号で、正平17年には矢野で合戦があったことも史料に見えることから、南朝方に属した地元の武士と何らかの関係が考えられます。宝篋印塔の隣りには、宝塔(市指定)も並んでいます。小塚の少林寺(しょうりんじ)近くには、正長(しょうちょう)元年(1428)の銘が刻まれた宝篋印塔があります。この塔は、通称「小米石(こごめいし)」と呼ばれる結晶質石灰岩(けっしょうしつせっかいがん)で造られ、東城町(現庄原市)から岡山県阿哲(あてつ)郡(現新見(にいみ)市)あたりで産出する石材です。製造当初は白く輝いていますが、風化とともに表面が米粒のように剥がれてしまい、銘が判読できるものは非常に珍しいです。小堀の長福寺には、天正(てんしょう)八年(1580)銘の無縫塔(むほうとう)(市指定)があります。無縫塔は、僧の墓塔といわれています。
 石造物も文献などとともに歴史を語る貴重な資料です。府中市の石造物を改めて見ると、比較的古いものが多いということがわかります。しかし、製造に携わった尾道石工たちの活動や、小米石製品の流通経路などはよく分かっていません。

結晶質石灰岩(けっしょうしつせっかいがん)製の宝篋印塔
(藤の権現・上下町深江)


青目寺塔婆(しょうもくじとうば)
(本山町)


伝うしの塔
(本山町)


常福寺(じょうふくじ)水鉢
(鵜飼町)


安福寺宝塔・宝篋印塔(ほうきょういんとう)
(上下町矢野)


長福寺無縫塔(ちょうふくじむほうとう)
(上下町小堀)