家具などの木工業
「府中家具」の名で全国に知られた家具工業については、江戸時代後期に大坂でタンス製造技術を修得した内田円三が、府中に帰郷した後に盛んになったといわれていますが、詳しいことはわかっていません。ただ明治中期以降に、タンスや桐箱などの指物(さしもの)類が地場産業として盛んになったのは間違いありません。タンスなどの指物、琴、下駄の製作には桐材が利用され、部材を順にとっていく、一種のコンビナートを形成していました。
木材加工の様子(昭和初期頃)
繊維産業
府中地方は、府中市(いち)村に福山藩の木綿運上(もめんうんじょう)(営業や売上にかかる税)所が設置されたように、綿作と加工が盛んでした。宝永(ほうえい)8年(1711)の『備後郡村誌(びんごぐんそんし)』によれば、芦田郡では、畑地の綿作率が70%の町(まち)村をはじめ、14か村で綿作が行われ、農閑期副業として「女ハ綿ヲ織」と記されています。明治中期から織物業者が、周辺農村の女性に織機を貸し出して賃織を行い、農家の副業として盛んになりました。女性を工員として雇用する業者も現われ、小規模織物製造業者が増えて、府中の工業の中核となりました。また芦品地方では、明治中期から蚕業指導が進められて生産量も増え、製糸業者が多くなりました。大正4年 (1915)には機械製糸が始められ、製糸工場がさかんに設立されました。
染料の原料である藍(あい)は、江戸時代末期から芦品地方で栽培されていましたが、加工業者が増え、明治22年(1889)には府中に備後藍商同業組合が結成されるまでになりました。第一次世界大戦による好景気で、府中地方の染料産業は著しく発展したものの、織物業では染料が不足しました。
染料の需要地であったことを背景に、大正5年(1916)、帝国染料製造株式会社(現日本化薬(株))が硫化染料の製造会社として府中市で創業するなど、硫化染料の製造会社が多く設立され、化学産業の基礎が築かれました。その後、廃液処理などの関係で、臨海地帯の福山に移行しました。
備後絣の糸干し(昭和16年・広谷町)
タバコ(煙草)製造
タバコ(煙草)は、江戸時代中期頃に自家用栽培が備後南部で広がり、文化(ぶんか)年間(1804~18)には製造業者も現われるようになりました。文政(ぶんせい)年間(1818~30)に刻みタバコの分業制の新製法を始め、安政(あんせい)年間(1854~60)になると、刻み機械を使う製造業者も増えてきました。この頃、葉タバコの栽培が盛んで「備後煙草」と呼ばれていましたが、葉タバコは府中に集められ、刻みタバコに加工され、全国に売り出されるようになりました。明治前期には府中町・出口町で多くの製造所が設立されており、刻みタバコの生産は県内一となっていました。明治37年(1904)時点では、府中町を中心に21の製造業者があがっています。明治38年(1905)には煙草専売制のもと、府中に「煙草製造所」(のちのJT府中工場)が設置されました。
その後、嫌煙運動などの影響を受けて、平成16年(2004)に工場は閉鎖し、現在、跡地が「府中学園」になっています。
専売局府中製造所(明治末・元町)
醸造業(酒造・味噌)
物資の集散地であった府中では、醤油や味噌、酒造りなどの醸造業も盛んでした。
府中味噌の起源はおよそ400年前といわれていますが、当時は家内工業的なものでした。明治時代に入り、味噌専門の製造工場が出来たようです。そして、第二次世界大戦後の昭和30年(1955)には12工場に増加し、広島県内の生産量の約4分の1を占めていました。
酒造業も盛んで、明治10年(1877)創業の桑田酒造の「天晴(あっぱれ)」ほか、橋本酒造の「洗心(せんしん)」、上安原酒造の「幾千代(いくちよ)」など、酒造会社が8社ありましたが、現在はすべて廃業しています。
味噌出荷作業(昭和初期頃)
金属工業
明治31年(1898)赤松鉄工所が創業、その後大正・昭和にかけて、大小鉄工関係工場が次々に生まれました。第二次世界大戦を経て戦後、急激に発展し、現在の金属工業の基盤を確立しました。
備後国府跡の発掘調査では、国府附属工房の系譜を受け継いだ、鋳物に関係した遺構・遺物が多く確認されます。また中世には、府中に国分寺助国(こくぶんじすけくに)という刀鍛治の一党がいたという説があります。近代の金属工業の素地だったと考えられるかもしれません。
このような産業が、現在の府中市の主要産業につながってきていますが、その発展の背景には、備後地方の交易上の主要結節点という地理上の利点が関係しているといえるでしょう。
現在、府中市では、このようなまちの歴史・特性を踏まえて「ものづくり産業」を活かしたまちづくりに総合的に取り組んでいます。