青目寺(しょうもくじ)・日吉神社(ひよしじんじゃ)の文化財
青目寺は、もともとは市街地北方の亀ヶ岳周辺に存在した寺院で、寺伝によると、延喜(えんぎ)年間(901~923)には、山頂に4坊、周辺の山腹に11寺を従えるほど隆盛していたが、たび重なる火災などによって次第に衰退し、寛保(かんぽう)3年(1743)に現在地に焼失をまぬがれた仏像を移したと伝わっている。
一方、日吉神社は、青目寺の守護神として近江から勧請されたといわれている。
市内の指定を受けた有形文化財のうち、約3割が、青目寺と日吉神社に関係したものである。
8 木造日光菩薩立像(もくぞうにっこうぼさつりゅうぞう)[県指定]
9 木造月光菩薩立像(もくぞうがっこうぼさつりゅうぞう)[県指定]
一木造りで像高88㎝、平安時代初期の作である。本像は木地に布を貼り、その上に漆を塗った乾漆像(かんしつぞう)であるため、衣文の彫りがやや浅く見える。今は剥落しているが、金箔を施してあったと伝えられる。
木造日光菩薩立像・木造月光菩薩立像
12 木造天部立像(もくぞうてんぶりゅうぞう)[県指定]
一木造りで像高117㎝(伝持国天(じこくてん))、118㎝(伝多聞天(たもんてん))でともに平安時代初期の作である。持国天(じこくてん)、増長天(ぞうちょうてん)、広目天(こうもくてん)、多聞天(たもんてん)四天王の内2躯で、持国天、多聞天との伝承はあるが、両腕が後補されているため確定はできない。
木造天部立像
11 木造聖観音立像(もくぞうしょうかんのんりゅうぞう)[県指定]
一木造(いちぼくづく)りで背刳(せぐ)りが施されている。像高117㎝、平安時代初期の作であるが、両腕は後補されている。本像は青目寺が山上に栄えていた頃の、いずれかの御堂の本尊であったと考えられる。
木造聖観音立像
33 木造僧形坐像(もくぞうそうぎょうざぞう)(伝青目寺上人像(でんしょうもくじしょうにんぞう))[市指定]
青目寺本堂内に安置されている僧形像。寺伝により、開祖青目上人の像といわれている。像高79㎝、膝張56㎝の一木造りの座像で、写実的手法により、素朴な表情をよく現し、のびのびした作風が室町時代の特色を表している。
木造僧形坐像(伝青目寺上人像)
14 五輪塔形曳覆曼荼羅版木(ごりんとうけいひきおおいまんだらはんぎ)[県指定]
曳覆曼荼羅(ひきおおいまんだら)とは棺に納められた遺体を覆う白布に曼荼羅を描いたもので、それを印刷するための版木が青目寺に伝わっている。
寺伝によると「正元元年(1259)四月二十八日」の年号が刻まれていたようである。いまは判読できないが、図像などから鎌倉時代製作と考えられる。
室町時代以前の版木は全国で5例しか確認されておらず、全国でも最古級のものと推測される。
五輪塔形曳覆曼荼羅版木
7 青目寺塔婆(しょうもくじとうば)(五層石塔婆)[県指定]
青目寺本堂右の収蔵庫北に所在。現高2.08mの花崗岩製。
基礎の正面に「正応五(1292)年二月二十八日、願主源□」の銘文が陰刻してあり、初重軸部(塔身)には、四面に胎蔵界(たいぞうかい)四仏の種子を薬研彫りで刻んでいる。各笠とも軒は厚く、真反(しんぞ)りに造られており、鎌倉期の特色をよく現している。
青目寺塔婆(五層石塔婆)
34 石造五輪塔(せきぞうごりんとう)(伝うしの塔)[市指定]
青目寺西方の山中に所在。総高1.4m、花崗岩製で大形のものである。火輪(笠)の勾配がゆるく、軒は厚く真反りに造られ、水輪が太鼓状の形態をするなど、古式を示しており、鎌倉時代前期頃のものと推定され、県内では最古の部類に入ると思われる。
石造五輪塔(伝うしの塔)
39 青目寺石造水鉢(しょうもくじせきぞうみずばち)[市指定]
青目寺境内所在。現高95cmの花崗岩製。
鉢は八角形で側面に蓮華文を刻み出し、竿の高さは60㎝で下半分の角を削いである。正面は「□為□二世也」、左側は「天文二四(1555)乙卯八月日」と判読できる。
常福寺(41)同様、備後地方特有の形式をもつ水鉢である。
青目寺石造水鉢
10 日吉神社宝塔(ひよしじんじゃほうとう)(「正和四年五月八日」銘)[県指定]
日吉神社本殿の右後方の基壇上に所在。高さ約1.5mの花崗岩製。
基礎の一面に「正和四年(1315)五月八日、勧進沙門、玄真」の刻名があるが、現在はほとんど判読できない。塔身の首部上面に、深さ12.5㎝のくり込みがあり、この中に納経してあったものと思われる。基礎の下には備前焼の甕が埋められていた。
日吉神社宝塔(「正和四年五月八日」銘)
35 日吉神社府川石鳥居(ひよしじんじゃふかわいしとりい)[市指定]
府川町に所在する日吉神社の鳥居。現高3.73m、花崗岩製。
元文年間(1736~41)頃に暴風雨で倒壊した後、宝暦10年(1760)に旧材の一部を再利用して再建したもの。島木の中央と右端の材と貫の両端の材が創建当初の材と推定される。転びがなく柱が垂直に立つことや島木が直線的なことなど古い様相が見られる。鎌倉時代末期から室町時代前期頃の創建と考えられる。
日吉神社府川石鳥居
49 日吉神社本殿(ひよしじんじゃほんでん)[市指定]
三間社の入母屋(いりもや)造りである。正面三間に内開きの蔀戸(しとみど)、側面前方一間に方引板戸を設け、四面に縁を廻らす。彩色はされてなかった可能性が高い。
寛永10年(1633)及び元禄16年(1703)に社殿再建の棟札があるが、様式的に元禄より少し新しい享保年間(18世紀前半)建立のものと考えられる。平成4年(1992)の解体移築では、全ての部材をそのまま使用し、当初の材がすべて残っている。
日吉神社本殿
南宮神社(なんぐうじんじゃ)
国府に関わりが深い神社で12~13世紀頃の神像も多く残されている。古代より永く崇敬され、江戸時代には福山藩の支援を受けて本殿が再建された。
神宮寺と合わせて、多くの文化財を今に伝えている。
[南宮神社神像]
6 版本大般若経(はんぼんだいはんにゃきょう)(600巻)(付経櫃(きょうびつ)3櫃)[県指定]
興福寺において刊行された、春日版とよばれる大般若経600巻のひとつである。この版本大般若経は、応永25~29(1418~22)年にかけて、僧中高の発願により、南宮神社へ奉納されたことが櫃の蓋に記されている。600巻全部が保存され、原則どおり200巻ずつ3櫃に納められ、櫃が経巻と同時代のものであるのは、極めて少なく貴重なものである。
版本大般若経(600巻)(付経櫃3櫃)
13 絹本著色釈迦十六善神像(けんぽんちゃくしょくしゃかじゅうろくぜんしんぞう)[県指定]
釈迦十六善神像は「大般若経」を転読する大般若会の時の本尊として懸用されたものである。縦210.0cm、横81.5cmを測り、画像の特徴から、宋元風の影響が強く、南北朝時代末期から室町時代初期の作と考えられる。セットになる大般若経600巻が現存しており、全国的にも稀少な例である。
絹本著色釈迦十六善神像
46 南宮神社本殿(なんぐうじんじゃほんでん)[市指定]
本殿は五間社の入母屋(いりもや)造りで、県内でも例が少ない。桁行三間,梁間一間の身舎の四周に庇(ひさし)を設けた三間四面庇の平面形式の発展型と考えられ、妻戸や連子窓を設ける形式は,新市町の吉備津神社本殿(国重要文化財)と共通する。両社とも入母屋造に千鳥破風(ちどりはふう)と唐破風(からはふう)を設けている点が注目される。建築様式から,17世紀中頃のものと考えられる。保存状態は非常に良く,一部が後補材となる以外はよく残っている。
南宮神社本殿
48 南宮神社鐘撞堂(なんぐうじんじゃかねつきどう)・随身門(ずいしんもん)[市指定]
鐘楼堂(かねつきどう)は、方一間の切妻造り、本瓦葺。本殿とほぼ同時期、17世紀中頃の建立と考えられる。鐘楼堂は、神仏習合時代には多くの神社にあったが、明治の神仏分離令により破却されたため、神社境内にあるものは極めて少なく、歴史的価値が高い。方一間の四方吹放ちの形式として、比較的古い建物であることも重要である。
随身門は、瓦葺で三間一戸の八脚門。貞享4年(1687)に建立されたという記述が残っており、建物の様式からみても、その頃の建立と考えられる。また、神像が2組残っており、以前は随身門が2か所あったと思われる。
南宮神社鐘撞堂
南宮神社随身門
5 金銅仏具(こんどうぶつぐ)(22点)[県指定]
五種鈴(独鈷鈴(どっこれい)・三鈷鈴(さんこれい)・五鈷鈴(ごこれい)・宝塔鈴(ほうとうれい)・宝珠鈴(ほうじゅれい))は和様のもので、鈴の頂部に八葉蓮弁の座を作り、胴に二段の帯をめぐらしてある。他に輪宝1、輪宝台1、羯磨(かつま)4、羯磨台(かつまだい)4、火舎1、六器6がある。
室町時代製作の古い密教仏具が、栄明寺に一括具備して保存されており、大変貴重である。
金銅仏具(22点)
15 木造阿弥陀如来坐像(もくぞうあみだにょらいざぞう)[県指定]
像高71.7cm。割矧(わりはぎ)造りで、頭・体とも前後に2材を合わせ、漆塗した上に金泥(こんでい)を塗っている。螺髪(らほつ)は切付螺髪である。像の各部が彫刻的均合を保ち、勇健な表現となっている。
全国的に見ても鎌倉時代前半期を代表する傑作である。栄明寺所蔵。
木造阿弥陀如来坐像
44 木造薬師如来坐像(もくぞうやくしにょらいざぞう)[市指定]
栄明寺の本尊としてまつられている。像高48㎝、膝張38㎝の寄木造(よせぎづく)りである。身体法衣に漆塗りをし、その上へ金箔をはってあったが、現在はほとんど剥落している。保存もよく、南北朝期の様式をよく表している。
木造薬師如来坐像
36 木造阿弥陀如来坐像(もくぞうあみだにょらいざぞう)[市指定]
栗柄町安江(やすえ)の観音堂に所在。像高86㎝、ヒノキ材の寄木造(よせぎづく)り。豊満で温和な表情や堂々たる風格を漂わせる姿が定朝様(じょうちょうよう)を彷彿とさせる。平安時代後期の製作と推定される。
かつてこの地に所在した「安衛寺」の本尊だったと伝えられる。
木造阿弥陀如来坐像
45 紺紙金泥大般若波羅蜜多経(こんしきんでいだいはんにゃはらみったきょう)(巻第五百七十)[市指定]
大般若波羅蜜多経600巻のうち、第570巻の写経である。紙巾25㎝、全長832㎝の紺紙で巻子本に作られている。書は金泥(金粉とニカワを混合したもの)により、藤原期のやわらかみのある和様の筆写体で書かれており、見返しには、釈迦説法の場面が描いてある。
紺紙金泥大般若波羅蜜多経
43 銅鐘(どうしょう)[市指定]
高さ134㎝、口径74㎝の青銅製の梵鐘。
元祿4年(1691)、栄明寺第十九代翁阿上人の発願により、御調郡海裏邑(うづとむら)(現在の世羅町宇津戸)の鋳物師丹下甚兵衛実次が造ったと銘文にある。現存する丹下氏作の梵鐘としては、甲山今高野山の寛文7年(1667)銘のものに次いで古いものと思われる。栄明寺の鐘楼にある。
銅鐘
17 木造薬師如来坐像(もくぞうやくしにょらいざぞう)[県指定]
木彫寄木造、像高1.49m、鎌倉時代後期(13世紀)作の半丈六仏(はんじょうろくぶつ)である。彩色は江戸時代のものと思われる。
上下代官所の初代代官曲淵市郎右衛門が病気平癒の霊験に浴し、北方約1kmの吉井谷から吉井寺(よしいじ)に移祭したと伝えられている。
木造薬師如来坐像
16 石造宝篋印塔(せきぞうほうきょいんとう)(「正平(しょうへい)十」銘)[県指定]
53 安福寺(あんぷくじ)の宝塔(ほうとう)[市指定]
宝篋印塔は、高さ1.3mの花崗岩製。塔身には、金剛界四仏(こんごうかいしぶつ)の種子が、基礎の裏面には「正平十年(1355)」の南朝年号が刻まれている。県内でも数少ない南北朝期の石造物である。
宝塔は、高さ2.35mの花崗岩製。刻銘なく造立年代は不明。
石造宝篋印塔(「正平十」銘) 安福寺の宝塔
41 常福寺石造水鉢(じょうふくじせきぞうみずばち)[市指定]
常福寺本堂前にある。高さ91cmの花崗岩製。鉢は八角形で、側面に蓮華文を刻み出してある。竿の高さ63㎝で、角の中ほどを深く削いである。正面に「奉寄進手水所一器□□□」「檀那□万歳栄盛當者也」、左側面に「□□不退□者也」、その左下に「五□左衛」、二行目に「天文十一(1542)壬寅年十一月吉日」の刻銘がある。背面には「尾道住大工左衛門」と刻まれ、尾道石工の作製が確認できる県内最古例である。
常福寺石造水鉢
54 長福寺(ちょうふくじ)の無縫塔(むほうとう)[市指定]
長福寺墓地にある歴代住職の無縫塔(塔身が卵形の墓塔)のうちの1基。結晶質石灰岩(小米石)製で、高さ90cm、基礎正面に、「当山中興開山暹用和尚天正八年庚辰(1580)林鐘」とある。
長福寺の無縫塔
40 坊迫宝塔(ぼうざこほうとう)[市指定]
元町の丘陵上に所在。高さ1.34m、花崗岩製。勾欄(こうらん)造りで、塔身軸部には縁板状の造出しが施されている。笠石(かさいし)の勾配(こうはい)はややゆるく軒反りは少ない。相輪(そうりん)は折損した残部が立てられている。
南北朝時代頃の製作と推測される。
坊迫宝塔
50 金毘羅神社石燈籠(こんぴらじんじゃいしとうろう)[市指定]
金毘羅神社境内にある19世紀の石造の燈籠。現高8.38m(約3丈)、笠石は一辺2.62mで約4畳半の広さがある。
文化7年(1810)、讃岐の金毘羅宮を遥拝(ようはい)するため三浦堪右衛門が発起したとされる。天保5年(1834)に着工、天保12年(1841)に完成した。建立に関係する古文書や石碑も残っており、当時の府中の総力を挙げて完成した大事業であったことを現在に伝えている。
金毘羅神社石燈籠
56 井永八幡神社大般若波羅蜜多経(いながはちまんじんじゃだいはんにゃはらみったきょう)(巻第二百八十七)[市指定]
大般若波羅蜜多経600巻のうち、第287巻の写経。全長8.85m、紺紙に金泥で書かれ、見返しには釈迦説法図が描かれている。
井永八幡神社大般若波羅蜜多経(巻第二百八十七)
57 水永大歳神社大般若波羅蜜多経(みずながおおとしじんじゃだいはんにゃはらみったきょう)(巻第三百九)[市指定]
第309巻の写経。もとは井永八幡神社所蔵であったが、嘉永7年(1854)、大歳神社に八幡神を分祀した際、写経も分けたと伝わる。
水永大歳神社大般若波羅蜜多経(巻第三百九)
58 元禄検地水帳(げんろくけんちみずちょう) 14冊[市指定]
元禄12年(1699)岡山藩により実施された検地台帳。上下村3冊、矢多田村1冊、水永村1冊、岡屋村1冊、二森村1冊、小堀村3冊、小塚村1冊、有福村3冊がある。
元禄検地水帳14冊
51 善昌寺座禅堂(ぜんしょうじざぜんどう)[市指定]
52 善昌寺鶯張(ぜんしょうじうぐいすば)り廊下(ろうか)[市指定]
座禅堂は一間四面の方形堂で、正中年間(1324~26)建立と伝えられる。背面頭貫木鼻(かしらぬききばな)や外回りの円柱に創建時と思われる部材が残っている。県内でも数少ない禅宗仏堂として貴重である。
鶯張り廊下は、独特の技法により本堂廊下を歩くと音が出るようになっている。永禄4年(1561)京都から高橋家次を招聘(しょうへい)して本堂を再建したと伝わる。
善昌寺座禅堂
善昌寺鴬張り廊下
47 府中八幡神社末社天満宮本殿(ふちゅうはちまんじんじゃまっしゃてんまんぐうほんでん)[市指定]
府中八幡神社は八尾山城の守護神であったと伝えられるが荒廃したため、地元住民が現在地へ社殿を再興した。当時21年をかけて募金を集め、元禄5年(1692)年に建立した本殿が、天満宮に転用されて現存している。この地方によく見られる本殿形式で、最古級のものである。建立当時の部材がよく残っている。
府中八幡神社末社天満宮本殿
55 国留八幡神社棟札(くにどめはちまんじんじゃむなふだ)[市指定]
国留八幡神社には24枚の棟札が保存されているが、明応5年(1496)と、天文16年(1547)の本殿再建棟札が指定されている。
国留八幡神社棟札
31 大久保弥生式遺跡出土品(おおくぼやよいしきいせきしゅつどひん)[市指定]
芦田川南岸の茶臼山山麓(栗柄町)に位置する大久保遺跡の出土品。昭和53年(1978)の発掘調査で弥生時代から古墳時代初期の住居跡や包含層が検出された。出土品には、壺・鉢・高杯・甑(こしき)形土器などや鉄鎌・玉類がある。
大久保弥生式遺跡出土品
32 宇瓦(うかわら)(備後国府跡[推定]出土)[市指定]
旧広谷小学校(鵜飼町)南の水田で発見された均整(きんせい)唐草文軒平瓦。
宇瓦(備後国府跡[推定]出土)
37 伝吉田寺跡出土品(でんよしだじあとしゅつどひん)[市指定]
昭和17年(1942)の発掘調査で出土した、男性の顔をヘラ描きした丸瓦や藤原宮式の軒丸瓦など。
伝吉田寺跡出土品
38 洞仙焼御神酒徳利(どうせんやきおみきとっくり)[市指定]
高さ42㎝、胴廻り21㎝の洞仙焼の徳利で甘南備神社に奉納されたもの。徳利の前面に「奉納」、後面に「天保六(1835)未四月、宮内屋新五郎、土生屋新右衛門、九州肥後宇土郡菊助」の銘がある。
この徳利により、1835年にはすでに洞仙窯が開窯されていたこと、また当時の陶工の名も知ることができる。
洞仙焼御神酒徳利