史跡

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22 青目寺跡(しょうもくじあと)[県史跡]
 亀ヶ岳山頂周辺にあった山上伽藍(がらん)跡。寺伝によると、延喜年間(901~923)には、山頂に4坊、周辺山腹に11寺を従えるほど隆盛していたが、度重なる火災などによって次第に衰退し、現在地(青目寺)に焼失をまぬがれた仏像を移したと伝わっている。
 平成7年(1995)以降、継続的に調査を進め、中御堂、西御堂、北御堂、東御堂、南御堂などの建物遺構を確認している。

青目寺跡

 
23 伝吉田寺跡(でんよしだでらあと)[県史跡]
 市街地北縁、金龍寺(元町)の南面に位置する。
 飛鳥時代から平安時代の寺院跡である。1967年の発掘調査で乱石積の塔基壇と講堂基壇の一部が検出されている。
 遺跡現地にある金龍寺には塔の心礎(しんそ)といわれる石が伝存している。

伝吉田寺跡

 
24 天領上下代官所跡(てんりょうじょうげだいかんしょあと)[県指定]
 旧上下町役場跡に位置する。元禄11年(1698)の水野家断絶後の検地によって、旧福山藩領は15万石とされ、5万石分が幕府領へ編入され、上下に代官所が置かれた。享保2年(1717)、幕府領のうち二万石分が豊前中津藩領となり、上下代官所は石見大森代官所の出張陣屋と改められて、幕末まで存続した。

天領上下代官所跡

 
26 南山古墳(みなみやまこふん)[県指定]
 横穴式石室を内部主体とする前方後円墳。全長は22.5mで、後円部は直径約14.5m、高さ約4m、後円部の東南に長さ約8m,幅約10m,高さ約1.5mの前方部がとりついている。石室の平面が羽子板状をなし、奥に向って右側に立柱状の石を設置しているのが特徴。出土遺物はほとんどないが、6世紀の終わりごろの築造と推定される。

南山古墳

 
25 有福城跡(ありふくじょうあと)[県指定]
 本丸は約50m×20mの規模である。四方へ延びる丘陵尾根には大小の郭、斜面には堅堀などを構える。建武3年(1336)、竹内兼幸は南朝方として有福城に立てこもったが、北朝方の山内氏・長谷部氏などの攻撃を受け敗れた。また,天正9年(1581)に有福元貞が毛利輝元から「有福要害」の普請と番衆の入城を命じられたことが確認される。

有福城跡

 
65 幡立山城跡(はたたてさんじょうあと)[市指定]
 幡立山城跡は、亀ヶ岳の西、標高約490mの山頂に築造された中世山城。1郭は約30mの長さで、その南に郭が展開する。1郭西寄りには、幡を立てて通信連絡をしたと伝えられる、幡立岩という巨石がある。
 幡立山城の南下方には、杉原氏の居城と伝わる八尾山城が存在する。最高所の主郭から八方に延びる尾根に小郭を配し、北側の尾根は堀切などで遮断している。

幡立山城跡

 
67 孝子畠(こうしばた)[市指定]
 小堀村の市松は、父庄三郎へ孝養を尽くしたとして、寛政5年(1793)に幕府から褒賞され、市松には銀五枚、父庄三郎には一日米五合宛を生涯賜わった。これを顕彰し、寛政7年(1795)この碑を建立したと伝わる。

孝子畠

 
66 金龍寺東遺跡(きんりゅうじひがしいせき)[市指定]
 平成3年(1991)から継続的に調査し、石積基壇を伴う礎石建物、大形掘立柱建物、板壁建物、苑池状遺構などが確認されている。遺構の周辺からは、鳳凰が陰刻された鬼瓦を含む大量の瓦類のほか、金属器を模倣した須恵器、緑釉陶器、墨書土器などが出土している。苑池状遺構からは、唐三彩の破片が出土した。

金龍寺東遺跡

 
69 翁山城跡(おきなやまじょうあと)(護国山城(ごこくさんじょう))[市指定]
 比高160mの傾斜急峻な山頂に、約70m×15mの本丸を構え、周囲に延びる尾根には大小の郭、斜面には堅堀などを配置する。『平家物語』で有名な長谷部信連の末裔といわれる長谷部元信の築城と伝わる。

翁山城跡(護国山城)

 
68 義農仁兵衛(ぎのうにへえ)と庄三郎(しょうざぶろう)の墓塔(ぼとう)[市指定]
 延宝4年(1676)、矢野小田辺に住んでいた仁兵衛・庄三郎の兄弟が、不作による年貢軽減を福山藩に直訴して打首となった。それを顕彰しこの墓塔を造立したと伝えられる。

義農仁兵衛と庄三郎の墓塔

 
63 五弓雪窓(ごきゅうせっそう)の墓(はか)[市指定]
 五弓雪窓は、学問、特に史学を究め、多くの著述がある。また、福山藩校誠之館の分校として府中郷学を設立し、この郷学が小学校として移管した後は、家塾を開き、多くの子どもの教育に専念した人物である。

五弓雪窓の墓

 
64 大戸直純(おおとなおずみ)の墓(はか)[市指定]
 大戸直純は、浦上盛栄と共に塾を創立し、多数の子どもを教育した。また、福山藩内では最初に社倉を創設するとともに、福山義倉にも出資して福祉事業を行なった人物である。

大戸直純の墓