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藤岡地域には塩分の強い温泉(塩化物泉)がいくつか知られています。これらの温泉と歴史、地域の暮らしを掘り下げると、温泉に入って癒やされるだけでなく、飲泉などの日本独特の温泉利用や人間や動物が生きるために欠くことのできない 塩との関わりが浮き彫りになってきます。
群馬県には461温泉(平成19年調べ)が知られており、その特徴は「泉質の豊かさ」と言われています。もっとも多いのは単純温泉(アルカリ性単純温泉を含む)が32.9%(151源泉)、次に塩化物泉(塩化物イオンが1g/㎏以上)が28.3%(130源泉)(2009 酒井より)です。この塩化物泉の中でもナトリウムイオン5.5g/kg以上、塩化物イオン8.5g/kg(塩化ナトリウムとして240mval/kg)を含むものがナトリウムー塩化物強塩泉(ここでは強塩化物泉とする)とよばれ、海水のように塩分の強いのを特徴としています。代表的なものはくらぶち相間川温泉、磯部温泉、鮎川温泉、三名川温泉、八塩温泉、西下仁田温泉などで、主に群馬県西南部、藤岡周辺に多く分布しています。
塩化物泉は特に保温効果が高く、四万温泉や磯部温泉などに代表される温泉は「胃腸の湯」と呼ばれ、飲泉されることが知られています。また、入浴だけではなく、磯部せんべいや羊羹、饅頭、湯豆腐などに使われ、温泉の名物として知られています。
藤岡には現在、八塩温泉、猪田温泉、上日野温泉(藤岡温泉休館中)、金井の湯(閉館)などが知られています。この西毛地区の温泉は泉温25℃未満の鉱泉と区分されるもので、泉質は主に塩化物泉です。先のとおり、群馬県西南部の温泉はこうした塩化物泉が多く、特に強塩化物泉と呼ばれ、成分的に海水に近いぐらいのイオン組成のものが多いのが特徴です。
中でも八塩温泉は塩分が強く、源泉は温泉街の南を流れる神流川支流南沢川の深い谷部、黒色点紋片岩の褶曲層の切目から塩泉が染み出ており、かつて「塩の湯口八か所」の名湯と呼ばれ、河川改修がおこなわれる以前は5か所、現在、温泉源泉として4か所から湧出しています。
八塩温泉は八塩館所蔵資料によると明治16年に発見され、明治21年より鉱泉として利用し始めています。現在、八塩館、神水館、鬼石観光ホテルの3館が運営されています。 八塩温泉はかつて、強塩化物泉であることから、昭和12年に「生長霊泉」という名称で、消化器系疾患などの効果があるとして販売され、塩も作られていたことが知られています。現在では様々な料理や菓子に利用されています。 塩化物泉は入浴して楽しむだけではなく、塩味や成分を利用して「食」としてもっと身近に楽しむ温泉文化があると考えられます。
こうした現在知られている塩化物泉とは別に、市内には塩の付く地名が残されており、三ツ木字塩狩、金井字塩水、藤岡字白塩道北、下日野字塩平、高山字為塩、高山字塩水など、鬼石浄法寺地区では八塩、宇塩があり、近隣では高崎市吉井町大字塩の地名が残されています。
こうした塩の付く地名は、かつて塩化物の泉または湧水がかつてあったり、土壌などに塩分が見られる場所であったりしたことが伝えられています。こうした地名が市内だけでなく群馬県西部に多く残されていることも興味深いことです。
塩分濃度の高い温泉・鉱泉(塩化物泉)は西毛地区を中心に広い分布を示しており、以前より様々な研究がなされています。
このような塩化物泉は、火山から離れた非火山性温泉と呼ばれています。この非火山性温泉は深層熱水タイプ、海水・古海水タイプ、グリーンタフタイプに分けられ、それぞれ成因が異なるようです。日本列島はユーラシアプレートの東端にあり、フィリピンプレート、太平洋プレートが合わさり沈み込んでいます。その日本列島には海や火山から離れた場所に熱くて塩辛い温泉があります。なぜこのような温泉があるのかとの問いに対するその原因として、研究者はプレートの沈み込みによる「深部流体」と考えています。
日本はもともとアジア大陸の一部でした。日本海が形成されて島国となりました。日本列島の下にはユーラシアプレートがあり、東北日本の下には太平洋プレート、西南日本の下にはフィリピン海プレートが沈み込んでいます。今は陸地でも昔は海であった場所も多くあり、地下水に大きな影響を与えています。近年の研究により、プレートの沈み込み帯で起こっている様々な地質現象に関わる水を深部流体と呼んでいます。海から沈み込むプレートが沈み込みによって、温度や圧力が加わり、プレートを作っている鉱物が変化する過程で水が出るというメカニズムです。この水が深部へ到達するとマグマを生成しますが、途中の低温マントルを抜けてきた水が塩分の高い温泉、鉱泉として湧出しています。海水と異なるのは成分が海水よりも濃かったり、火山性の成分が多く含まれているためです。日本各地には塩の付く地名が多くあり、こうした塩化物泉が湧く場所がいくつもあったことが分かります。
会津地域、大塩温泉や熱塩温泉では温泉から塩づくりが今でも行われていることが知られており、生活の中に山塩として息づいています。塩の道では海水から製塩された塩の流通があります。長野県の大鹿村鹿塩は中央構造線の露頭がある地域で、海水とほぼ同じ濃度の塩水が湧いています。今でも塩作りが行われています。地名などをみると古くから動物が集まり、塩分補給されていた場所です。こうした資源は地域では古くから知られていたものと考えられます。藤岡の八塩温泉でも塩作りがかつて行われていたことがあります。
海だけでなく内陸でもこうした強塩化物泉を利用した塩作りが知られています。
塩化物泉について、その特徴と現代の利用について見てきました。内陸の強塩化物泉が塩として利用されていることもわかったと思います。
それでは、塩と動物、人間の関係を考えて見ましょう。
動物にとって塩は、細胞浸透圧調整などの生存に欠くことの出来ないものです。動物が塩分を求めて山野の特定の場所(塩舐め場、塩化物泉などの湧出場など)に集まったりする行為はそうしたことによります。
最近、鹿が道路や市街地に出現することがよくあります。山林の開発などで鹿の塩舐め場を失ったため、融雪用の塩化カルシウム(塩)を舐めに道路に出現してくるようになったことが原因といわれおり、あらためて生き物、特に草食動物、他の動植物から塩分を得られない生き物にとって、塩は命に欠かせない存在であることを知らされます。
人の塩利用は生業の中心が狩猟採集であった時代(旧石器時代など)は、肉などの動物からの塩分摂取で充足されていましたが、生業が農耕に移行するにしたがって、植物への依存度が高まり、別に塩の摂取する必要が生じてきました。縄文時代に貝塚の形成に見られる貝類の流通や製塩と塩の流通は狩猟・採集から農耕へ移行する中で生じた活動とみることができます。また、狩猟採集においても移動生活であるので、必要があれば塩を得られる地域まで移動すればよい。しかし、定住化が進むとそうしたことも容易でなくなることから、海辺の人たちとの塩の交易、流通に頼ることになります。海辺ではそうした需要から製塩が行われるようになります。
さて、塩はどの位の量が必要なのでしょうか。人の場合、塩の消費量について先人の研究がありますが、現代では、一般的に調味料として醤油や味噌、塩引きの様々な干物や海鮮類、漬物などの塩分を含むものなどで、直接、塩を経口摂取することは少ないと思われます。そのことから一人が1日にどのくらいの塩分が必要かを正確に割り出すことは困難です。また、塩の購入量は味噌や漬物を作る家庭は多くの塩を購入するので、比較が難しいこともあります。近年では減塩志向で、個人差も大きいと考えられるので、年間どのくらい塩が必要かは、かなり感覚的な消費量となるものと思います。ただ、塩は生きるためには必要なものです。
古墳時代に大陸や朝鮮半島から馬が日本にも伝えられ、馬の生産が始まります。群馬県は馬の生産が盛んに行われていたことが、黒井峰遺跡や金井東裏遺跡などの調査で、馬の足跡や馬小屋などの跡が明らかになってきました。また、6世紀の古墳から馬具や馬の形象埴輪が出土することが知られています。馬は移動手段や軍事的な利用では最先端の乗り物です。馬形埴輪を見ると様々な馬具と鈴や杏葉などの装飾が目を惹きます。移動や戦場で乗りこなすだけでなく、権力の象徴的なものとしての馬が想像できます。
馬はその飼育には多くの塩が必要であると言われています。大陸では岩塩を舐めさせることが多く行われていたようです。日本には岩塩がないので、人と同様に塩を得る必要があります。しかし、遺跡や文献で古くから馬匹生産を行っていることで知られているのは大阪、そして群馬や長野などの内陸部です。近世ではこうした長野や群馬に日本海や瀬戸内の塩の道が知られており、そのルートは古代では中山道が主要な駅路として整備されていたことも馬匹生産との関わりを感じさせます。また、伊那谷や群馬に置かれた牧推定地の近隣には塩化物泉の湧出地や塩の付く地名があることも塩化物泉利用を考えることができます。 こうした馬の生産が内陸である群馬や長野で行われることは、牧のような広い空間や塩の確保が容易などいくつかの地理的条件と飼育に関わる技術を持った集団やそれらを統制する体制などの社会的な条件が整っていたものと推測されます。
古代の馬飼育に関する資料は不明な点が多いので、資料のある近現代の馬の飼育と塩についてみると『日本塩業体系 特論民俗』の「第5章塩と生活、五 家畜と塩」では、東日本では特に牛馬に対して、普段は直接、塩を与えず生活の中で残った塩分を餌に混ぜて与えていたようで、特に農耕や運搬などの重労働等で牛馬を使用した時に手づかみ程度の塩を与えていたといいます。西日本では4~5日に一握り程度を与えたようですが、暑い季節や労働などの発汗で塩分が不足する場合に一握りというような与え方をしています。こうしてみると生活の労働を牛馬に依存していたころ、おそらく2~3頭の場合では、牛馬の飼育は生活で使う塩が多少多くなるぐらいで足りていたように考えられます。
家畜に必要な塩の量は、牛は1日に80g、馬は40gの塩を必要とします。純度の高い食塩を与えると、流産や病気の発生がふえるので、塩の専売時代にも酪農業では輸入天日塩を飼料に使っていたといわれます。古くから家畜用の飼料に鉄、銅、コバルト、ヨード、カルシウム、マグネシウムなど、ミネラルの入った固形塩がつくられており、広く普及しています。その意味では、製塩で純度を上げた塩よりも塩化物泉のような塩の方が与えやすいし、馬や牛にとっては良いと思われます。このように直接塩ではなく、塩分を与えるのであれば、塩化物泉はミネラル分も含まれているものが多いので、たまに汲んできて餌に混ぜるか、塩化物泉に連れて行って与えるので十分であると理解できます。生活に必要な塩は「塩の道」で海からの流通で十分に得られることと考えられますが、塩の購 入にはお金(代償)がかかるので、多くの牛馬を飼うには近在に塩化物泉があれば好都合と思われます。しかしながら、塩化物泉の塩分濃度や湧出量は地域によって異なるので、使用する塩量よって、馬匹生産の規模や飼育法にもよりますが、飼育に大量の塩が必要な場合は製塩地域から舟運、又は陸路での運搬が必要となるでしょう。この辺も十分に検討するには十分なデータや資料はありません。塩の流通では中世から近世にかけて、地方文書等で稀に塩の運搬に関するものがあり、塩の流通の重要性が分かります。
一方、牛馬の場合は、先の例では様子や活動を考え、与える量を調整していましたが、地域や環境、育て方で様々です。数頭の飼育であれば、人間の残飯を与えることで、塩分量がある程度足りてしまうこともあり、塩を与えることや「塩」そのものを意識しないこともあったと思われます。
御牧推定位置と塩化物泉分布図対比 出典:左図『学術調査研究報告:温泉科学』(加筆),右図『牧の景観考古学』(加筆)
戦国時代の関東とその周辺には駿河の今川氏、関東の後北条氏、越後の上杉氏の勢力がせめぎ合い、お互いに牽制していました。駿河は太平洋側の塩の産地でもあり、瀬戸内の塩も富士川から内陸への塩のルートの1つでした。越後も塩産地で、北陸の塩を直江津から荒川沿いに内陸への塩ルートの一つ、関東の後北条は利根川から入る塩ルートを持っていました。
内陸国に領地を持つ武田信玄は、同盟国の駿河国(静岡県)から食塩や魚介類を輸入していました。ところが、1567年(永禄10年)、東海方面への進出を企てた信玄は13年間に及ぶ駿河国の今川氏との甲相駿三国同盟を破棄し、永禄11年、武田は駿河侵攻開始、今川、後北条氏を攻めました。これを受けた今川氏真は自国に加え、縁戚関係にあった相模国(神奈川県)の北条氏康の協力を仰ぎ、武田領内への塩留(塩止め)すなわち食塩の禁輸政策をとりました。これにより、信玄の領民は生活が困窮し、健康被害が懸念される事態となりました。伝説では、これを見た越後国の上杉謙信が、敵対していた武田の領民の苦難を救うべく日本海側の食塩を送った、「敵に塩を送る」ということわざが生まれたとされています。
この後北条の塩止め政策の文書が残されています。 この文書では、藤岡の東の神流川周辺で西へ行く塩の流通を止める指示を行っています。塩の流通が藤岡地域をポイントとして西へ流通していたという大きなルートがあったことがわかります。
藤岡地域の温泉は強塩化物泉が多く、入浴だけでなく、その利用と塩という視点で、古代では馬の飼育、生産にこうした塩化物泉が利用されていた可能性を考えてきました。八塩温泉周辺では塩の付く地名が多く残され、神流川対岸には阿久原牧の推定地があります。こうしたことを広げて考えると安中市の磯部温泉の南にも牧推定地(中野谷遺跡群)があり、黒井峯遺跡の南西にも塩の付く地名とかつて塩化物泉が湧出していたことが知られています。このように歴史的には塩化物泉は人だけでなく動物にも利用されてきており、暮らしに深く関わっていたことが理解でき、今後、研究が深まることが期待されます。