Invitation to Takayama-sha
「高山社跡」は、高山社の創始者、高山長五郎が養蚕法の改良を行った「高山社発祥の地」です。
高山長五郎は文政13年(1830年)に藤岡市高山に生まれました。高山村の名主であった長五郎は、村の経済利益を上げるために、現金収入が期待できる養蚕に着目し、様々な研究を行い、試行錯誤の中から養蚕法「清温育」を確立しました。養蚕教育機関「高山社」を設立し、全国各地から集まる生徒に格安で分け隔てなく技術を教えました。
明治元年(1868)に発明されたといわれる「清温育」は、明治17年(1884)までに確立されたと考えられています。「清温育」は、人工的に温度と湿度を管理した「温暖育」と、換気を重視した「清涼育」の長所を取り入れた「折衷育」と言われています。「清温育」は、温湿度の調整と換気を重視するとともに、蚕の食べる桑の管理の仕方や、蚕の成長段階に応じた桑の与え方をマニュアル化したことが特徴的です。
サムネイルをクリックすると、高精細画面で書物の内容をご覧いただけます。
明治27年『高山長五郎傳』は養蚕改良高山社の創設者であり、養蚕法「清温育」を確立した高山長五郎の功績や労苦をまとめ、高山社の正副社長を務めた町田菊次郎、高山武十郎、高橋茂太郎の小伝を加えたもので、高山長五郎の生涯や生き様を知ることができる。
大正4年『最近養蚕法』は、町田菊次郎が高山社の養蚕法「清温育」を研究体系的にまとめ、『養蚕法』(明治37年刊行)に一代交雑種などを増補したものである。町田菊次郎は明治8年高山長五郎に師事、養蚕を研究し、明治19年高山社社長となり、明治34年私立甲種高山社蚕業学校を開校、養蚕技術普及に務め、授業員制度を確立した。
明治38年『高山社蠶児飼育法』は、高橋清七が養蚕改良高山社、下仁田製糸社に籍を置き、町田菊次郎高山社長に「清温育」を学び、それらの経験や諸氏養蚕法や実験を経た内容をまとめたもので、当時の高山社の養蚕指導の内容を伝えるものである。
養蚕農家が桑を栽培し、蚕を育て、繭を生産する過程において多種類の道具が使われていました。
藤岡地域では、明治33年に藤岡町の福島元七が大量の桑を刻むための桑切機の改良に成功し「福嶋式桑刻機」を発明・販売したことにより、生産性の向上に大きく貢献しました。