史料集第七集は、十八、九世紀の文人たちの著述で、二十世紀に入って昭和二十年代以降に船橋市が古書店から購入して、その後同市西図書館の蔵書となったもので、購入以前の来歴は、まったく知ることができない。いまその文献を通覧すると、いずれもが房総地方をふくむ南関東諸国の地誌につながるものになっている。これはあらかじめ意図したものではなく、あるいは筆者の思い込みによる判断かもしれないが、ここでは、講読の順序にこだわらず、この観点から文献を配列してみた。諸文献の多くは、ここではじめて活字になるもので、読者は、筆者の思い込みによる解説にかかわらず、自由にこの資料集の面白さを味わっていただきたい。
最初に、房総地方の近世の地誌として、古来著名な『房総志料』の一本をかかげる。房総志料と題する一群の史料集のうち、西図書館所蔵のものは、文化三年(1806)写しの五冊本が一種、これとほぼ同内容とみえる三冊本が一種、二冊本が一種あるが、外に、「房総志料 安房」と書き出しにある一書が、ここに掲げた本になる。同館所蔵書の内、他の類本とやや構成を異にし、刊行本の房総叢書本活字版との異同も大きいかにみえるからである。内容は、房総志料のうち、安房の部の抜き書きに近い構成かと思われ、房総志料というには、その一部に留まるが、反面、比較的まとまった文献である。
安房一国の成立過程の文献を最初に掲げる点などには、やや考証の不足も目につくが、土地の産物、地形とひとびとのくらしの条件などが記される。たとえば、本邦(安房の国)では、倒寒という諺があって晩寒のことである。冬の日は暖かく、霜や雪を知らないが、春になるころ寒い。これは、時候の遅速によるのでなく、海の潮が冬は暖かく、春に入って冷であることにより、それは山を背にして海を南にする地形に拠っていると説く。また、日蓮の生地であるから日蓮宗の寺が多いかと思ったが、実際は、古寺の多くは真言派であり、こういう点に、古い習俗の存在を知ることができるといった記事がある。
安房での歴史については、東鑑などの文献によって、源頼朝や千葉広常らの行動を、現在村々の位置と照合させた記述があり、ついで、一五世紀以降の里見氏の一党の勢力拡大の動きが、ややくわしい。近世初年に、この土地を追われた里見氏についての所伝は、やがて、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』によって、江戸人士の人気に叶い、近年の観光地案内等にも及ぶが、その素材に当たるものが、ここに記される里見関連の伝承類になろう。ただし、頼朝の三浦半島からの安房渡航と以後の勢力拡大と、同様に三浦半島からの渡海にはじまるとする里見の所伝との混交は、里見家の関東での勢力拡大のなかで、同家によって意図的に企てられた面も、今では注意することができようか。そうした里見家にかかわる史伝以上に、この本の特徴は、関東のなかでも、海に結ばれた国安房を、眺望からも、産物の上でも示し、伊豆や遠く紀州との近さを記す点にあるだろうか。
房総志料という膨大な資料伝承の一部として、この安房の部の一本が、活字本を中心とした房総史料の検討にいくらかの役割をもつことを期待したい。
第二にあげるのは、『墨蹟遣考』と題する二冊本である。 初めに天保一二年二月一八日付の月下亭音高という人物による序があり、そこで六十三齢とするのは、時に年齢六十三歳という意味であろう。『国書人名辞典』は、『狂歌人名辞書』を参考として、砧音高という人物が号を月下亭と称し、江戸住吉町に住んでいた狂歌作者とする。これが『墨蹟遺考』の著者にちがいない。ただ生没年は不明とし、生年は、この序で知られるのである。『国書総目録』には、『俳譜歌画賛集上巻』(文政八自序)と『藻哥聯乃玉』という写本が、どちらも月下亭音高の名で、記載されている。江戸の住人で、いくらかは名の知られた狂歌師であったが、その著の伝えられるのは少なく、『墨蹟遺考』も、西図書館本以外知られない本になってしまった。
序によると、年頃考えていたことのあれこれを書きつけておいたのを、友人がみて、版行をすすめ、断わり切れずに、旅に出たときに面白く思ったことなども加えて、書店に渡すことにしたとする。以下、乾坤の二冊本は、版行を予定した原稿になっていて、ルビも丁寧である。
序にみえるように、上巻乾が、さまざまな着想や考えたことのメモ、下巻坤が旅行記とはっきり分かれる。ここでは便宜上、下巻からみよう。東金を根拠に天保五年八月から翌年にかけて、九十九里の浜に遊び、鯨の潮吹きを見てから地引網で鰯を採る作業を観察、魚類の馳走になった記事にはじまり、九月初旬には、小馬子の牧での野馬取を見物、二年前東金の新宿の古い蔵に発見された蟻の塔を見物する遊覧の記述にいたる。この間、蟻の塔について和語本草という書物の引用をメモする以外、考証記述抜きでの旅行記になる。
以下、遡って、享和元年(1801)五月、熱海の海岸と温泉、初島の探索とそこでの大きな鮫との遭遇、観音窟の探索から、狼や山崩れに怯えながらの箱根路の旅の記がある。ここでみた十国峠の石碑写しには、天保六年七月再訪の記事があり、本にする上で確認におとずれたのかとも思わせる。反面、箱根路での洪水山崩れの記事は、翌享和二年のことで、『武江年表』にみえる江戸深川辺の洪水などにあたるであろう。著者にとって四十年前ごろの若いころの旅の回想をも含んだ記述で、いくらかの誤伝をふくむかもしれないが、小馬子の牧の野馬取など、今の八街市域にあった幕府牧での野馬取の実況を直接見た記録としても貴重であり、また熱海・箱根の旅行記は、近代の観光地以前の、この地方の旅が、むしろ探検に近いものだったすがたを実写している。なお東金の地引網以下、小馬子の野馬取、東金の蟻の塔、熱海海岸の大波や網代海岸の観音窟、箱根路の展望など、随所で図が挿入されているのも、当時の旅の記録精神の表明であろう。著者もまだ若かったが、これらの旅の記は、ほとんど明治期の書生たちの旅の記述を思わせるものがある。
そうした旅の記録が、漢文体でなく、一種の擬古文で記されているのだが、そこで、この狂歌師の学について、乾部分を検討してみよう。狂歌師の学は、日本古典の多くの引用と契沖、本居宣長らの考証の助けを借りて、神代紀の裏という考証にはじまり、桃太郎の話や舌切り雀のはなしを例に、日本の風儀を説き、皇国の人は皇国のことを知らねばならぬと説く。その考証は、俗語を尊重し、漢字表記にかかわらず口語によって意味を考えるにつとめ、反面、爺が山に行き婆が川に行ったのは陽と陰とを意味し、桃は女陰を表し、桃太郎に従う雉・猿は陽物とし、打ち出の小槌は子宝を打ち出すとし、社頭の鈴は男根、鳥居は女の股、男根を隠れ笠、陰門を隠れ蓑というなど、男女の交合にかかわる秘事とするなど、性的隠喩に注意を促す。そして、船・風・酒などのことばが物の上にあるときは、フナ、カザ、サカと読むなどの音韻変化への注意が、かれの考証の手段であった。狂歌師の学問の性格を示すといえよう。こうした検討から、たとえば江戸品川の鮫頭という地名も、鰐鮫由来でなく、三枚洲に由来すると考証してみせる。
かれの友人には、相模三浦郡の諸星古根という俳諧の歌よみや、尾張名古屋の橘庵田鶴丸等があり、天保十二年当時はすでに故人になっていた。田鶴丸とは早くから互いに手紙を交し合う仲であったというから、橘庵漫筆という本の引用があると、この田鶴丸の書いたものかと思えたが、これはまったく別人の著書に橘庵漫筆という書があった。田宮仲宣という人物の膨大な著書で、現在活字本では『随筆大成』に、「東牖子(とうゆうし)」とその続編とみなされる「嗚呼矣草(おこたりぐさ)」として、享和年中に刊行されたものが収録されている。田宮は、もと京都の呉服商で、寛政末頃、家業を廃して大坂に出、雑筆家として生活し、大田蜀山人や滝沢馬琴らと交友があり、天保初年に没した人物という。月下亭と直接交際があったとは思えないが、保久曾頭巾というものの説、鰹節の説、千六本の味噌汁の説、股引の説がそのまま『墨蹟遺考』に引用されている。ただ、それ以外にも、月下亭は、この田宮の著作から多くを受け取っているようで、京坂地方で活動し、上方の風俗に即して、諸事を考証した田宮の著書の性格は、全体として月下亭の考証方法と類似していた。
月下亭の時代に先駆けて、上方では田宮による市井雑事からの考証文献が現れ、月下亭は、この刺激の下で、これを参照しつつ、田宮の知らない関東の村々の例を論じていったものであり、東金を拠点にしての旅なども、こうした関東の地の風物への知識の素材となるべきものであっただろう。田宮らと通じる文人が関東に生れ、関東と関西を通じての日本の地理民俗に光があてられていく時代を反映した文献がこうしてできていくのは、日本人の自己認識の過程として少なからぬ意味をもったであろう。ただ、友人に勧められて版行を思いたったというのは、当時の文人共通の謙遜の言であったろうが、この興味ある文献が版行されたことはきかない。かれはこの後間もなく世を去ったもののようである。
したがって、この本が広く活字になったのは、この「船橋市西図書館の古文書を読む会」によるのが最初かと思われる。著者に喜んでいただけるかの思いとともに、こうしたあまり著名ではない文人の果たした役割に注意しておきたい。日本人の日本文化認識のひとつの成果は、こういうかたちで、残されたともいえよう。
第三にあげるのは、『真間紀行』という小文で、一見してわかるように、紀行というほどの距離でなく、江戸近郊の現在の市川市中央西部一帯の散策の記録である。天保十年八月一日、光徳という人物が、二人の友人とともに、浅草橋(吾妻橋か)を渡って、利根川(江戸川)筋を歩いての記録で一日の「旅」の記録に過ぎず、本史料集所収文献としても、他と比べて、ごく短文である。
だが江戸の住民にとって、川ひとつ渡れば、そこは日常生活とは別な世界があり、古くは真間の手児名の社をはじめ、聖武天皇の国分寺のひとつ金光明寺から、日蓮縁故の弘法寺、八幡の知らずの森等から、国府台の古戦場跡など、懐古の場は豊富で、風景もまた目に新しいものがあったのであり、江戸住民にとって、近隣の散策程度の労で、日常とは別な文雅を感じることのできる場であり、かれらはそれを利用していたのであった。小品だが、我々をもかれらとともに、その喜びを楽しむ場に誘ってくれる。
第四は、やはり紀行ともするが、かなり長距離にわたる『海岸紀行』の一文を掲げた。西図書館本は、上下二冊で、表紙には海岸記行 上、下と記し、嘉永七年五月付の跋文によると、嘉永六年夏、友人相馬氏が所用のため相州から上総に旅した折、武相房総の海浜を巡覧して、当時外備防禦の守衛の厳重な姿を畏れ見、かつは大江戸の余光を以て近郷にいたるまでの繁華を愛でて、上下二冊の書として他見を許さず、箱に収めたものという。
だが、真間紀行が風雅の友との楽しみを記しただけの紀行で西図書館の蔵書以外に広がらなかったと思えるのとちがって、海岸紀行は、版行こそ知られないが、多くのひとに書写され、現在も、横浜市歴史博物館、東北大学狩野文庫、東大史料編纂所、国立歴史民俗博物館等に、それぞれ表題を異にしながら、別な異本として筆写本が伝えられている。それは、この本が単なる風雅人の旅行記でなく、伊豆・相模・武蔵・房総諸州での海防施設の巡覧記であって、多くの読者の需要に応じたことを示している。
筆者相馬氏は、経歴を確かめるにいたらないが、ある程度砲術の知識を持っていて士分に列するものと思われ、その旅行は、なんらかの使命を帯びての視察記であったかのようでもある。ただ、それが、幕府の命による海岸警備体制の確認といった公務の報告書とは到底みえず、この本の性格は、本の需要者を考えることによるしかないと思われる。
記述は、羽田大師河原海手の洲からの玉川河川による張出に起筆する。現在の国際空港あたりの記述であろう。そこから神奈川の入江、本牧領等を経て金沢八景辺の料理屋に触れ、鎌倉・江の島等に至る道中については、衆人のよく知る処だから略すとするあたり、本書が土地案内記の要素を持ったことを見せている。
江戸への薪積み出し地に過ぎない横須賀湊から山を越えて大津村にいたり、そこでの猿島御台場について記述がやや詳細である。弘化三年(1846)築造がきまり、翌年十一月土木成就の上、川越藩に引き渡しになっていくとする。この本の記述当時も、武蔵川越藩の管下にあって、弘化三年十二月、発砲を試みたあと、地震か雷かと思える響きがあったことを、翌年正月、浦賀から房総渡海の折に確かめたという。大津村には、外記流と武衛流との二流派の鉄砲方があり、弘化四年までは月々稽古があったが、当年申年は、年に二度づつに定まったときくとする。著者のこの地方への旅は、まず嘉永元申年(1848)正月のことだったようだ。
川越家の陣屋は、四方百四、五十間ほどで、内は惣長屋作りで士分以上の者が住居、陣屋外に足軽組長屋があるとする。大津村が川越家の陣屋元となって、食類調度などを商う家や旅宿なども出来、日を追って繁昌の土地になっていくとする。以下、もう少し早く天保十四年にできた旗山御台場での大砲の記事があり、番所は猿島に似て小さく、見附の大番所のようなもので、足軽中間各二人が大津から通勤し、夜着、食事等は牛で輸送することなどが記される。
こうした台場の管轄は、成立以後、しばしば変わっていた。三浦半島から房州を目の下に望む観音崎の台場は、文化九年会津藩管轄から浦賀奉行管下を経て、川越藩管下に入ったものであり、本書記述の範囲外だが、猿島台場等は嘉永六年からは、熊本藩、長州藩ついでまた佐倉藩等の管轄になった。もともと、この地方に縁のなかった土地から、幕政史の諸段階に応じて、何人もの藩士たちの勤務場所になることがあったのである。そうした諸藩士にとって、勤務地がどんな土地かは、大きな関心事になり、大津陣屋の例のように、江戸の料亭文化を移植することもあったわけで、こうした情報を求めたひとにとって、砲術の知識等々のほかに、土地の事情、とりわけ江戸文化の浸透度如何が関心事となり、海岸紀行のような文献が求められたのであろう。
およそ以上の行程までが上冊で、下冊は、浦賀から、彦根藩井伊家持ち場の三浦郡鎌倉郡、伊豆の記述になり、海を渡って上総で佐貫領主阿部家管轄地、比類なき守衛の場という富津辺の会津家受け持ちの台場から佐倉堀田家領の寒川村等を経て、船橋から行徳に出るまでの記述になる。浦賀奉行管下の台場は、公儀御備場で内見を許さずとするほかでは、大砲の記事もあって、城ケ島の台場では、龍の模様の鋳付がある砲を一見したりもしているが、そこでの伊豆大島を目前にして伊豆から房州,箱根山から富士を望む景を望むなどの描写と海岸地形の観察が、本書の眼目であろうか。しかも、井伊家以外の道中がなく、町並、旅籠屋も見苦しいが魚類は豊富といった類の記事などが、こうした海岸防禦役を帯びた人びとにとって、求められた知識の重要なものであったろう。
もともと、寛政年中に松平定信の政権が、海岸警衛の要を説き、有力大名所領を欠く房総地方から相模・伊豆にかけて、外国船警戒のため廻村や海岸絵図の作成等を意図したとき、海防を意識して房総の地域概念が幕府内に成立していったという面も指摘されている(筑紫敏夫「寛政改革における幕府の房総廻村について」)。
それから五十年ほど経たこの時期、江戸湾内の海防施設が急務化してくるなかで、江戸人士と沿岸諸地域との交流強化が実現していき、海岸紀行のような文献が、何人もの江戸士人から求められ、それは海岸地方の江戸化をも伴って進行したのであった。
さらに少し後代になると、ここでまだ辺鄙な海村に過ぎなかった神奈川の地近くに、外国人の居留する新しい街、横浜が生まれ、なお後年の大都市とその近郊住宅地にと、この地域は大きな変化を経験していく。そうした状勢への第一歩が、本書にいうたとえば大津村の川越藩陣屋元の急速な繁華であったのだろう。ペリイ来航直前の江戸湾岸での海防施設の状況を知る史料にもなるが、こうした事情が、この地域の変貌と、同時にまた、都鄙の別を超えての地域認識の機会ともなっていくのを示す文献でもある。
(2013・2・26 塚本 学)