※東大史料編纂所所蔵「海岸紀行」との校訂を行い、表記の異なる箇所は[ ]で傍記した。
 
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海岸紀[記]行 上
   東都相馬著 越□[ナシ]□鈴
   大師河原神奈川辺
一 羽田大師河原海手に洲あり、是ハ玉川より流れ出る土砂の往昔ゟ海を押埋ミたる洲なるか故に、年々其広狭を定むる事なくして、壱[其]丁数斗[張]出も土人の物語り一定なしといへり、大凡常陸の洲ゟ南北十丁斗り斗[張]出も又同し程也といへり、其中間を玉川流通して其瀬定る事
 
 
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なし、年々洪水ニ依而或ハ直流し又ハ屈曲すると[事]いへり[何里といへり]、故に海に遠き事あり、又近き事ありて海面江手寄あしき場所也[といへり]
一 神奈川に入江あり、東西壱り南北弐十丁斗りの湊にして、此土地ゟ江戸江諸荷物運送の船着也、人々知る通りの事也
   本牧領
一 金川湊の南側者則ち本牧領也、かな川の方へ向ひたるハ横濱村といふ、村内ニ小湊あり、土俗すまといふ、又周勘の湊といふ、方六七丁、土地の漁舟掛る場也、湊口に弁才天あり、祭礼の日ニハ近郷ゟ参詣群集也[をなし]、諸方ゟ渡海するといへり常々渡海をきんせりといふ
一 本牧本郷ハ一ツの嶋山の如く斗[張]出したる土地也、
 
 
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大師河原新田寉見辺ニ而一条の海を隔る斗りなれ共、土地大ニ相違せり、海辺岩山ニて切岸高く海ふかく又隠れ石[岩]隠洲ありて、船舟[着]に便りあしき土地也と故り、大船ハはるかに上総地方二里余りの遠沖を乗といへり
   杉田郷六浦ノ庄
一 寺家村者杉田の郷中の一村にして梅林多く有衆人の知る所なり、此辺海岸遠洲の場所ニ而薪問屋多くあり、本牧領杉田郷中ゟ切出す真木麁木江戸運送の舟数多あり江戸霊国岸嶋[霊岸嶋]辺ニて金沢舟といふ物也、百石積位を以て大とし夫ゟ以下おふし
一 六浦の庄ハ小山多く入江ありて平地少し、入江のくひれたる処を瀬戸といふ、瀬戸明神有、橋二つあり、瀬戸橋といふ、西側を金沢、東を洲崎といふ橋際に料理茶
 
 
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屋あり、騒客の遊楼なり橋より北の方三十丁四方斗[三十丁斗]りの湖水を領主手普請にて海水を立切、土手を築、新田となすといへり、未タ関[開]手三四分斗り出来懸りのミなる□[たるのミ也]、金澤八景の内二ツ斗り欠あり金澤に米倉家陣屋あり、大手向者岩山を切通し入口としたる所にて、塀石垣なと少もなし、又塩浜あり、渡[径]り三尺四五寸深サ五六寸斗りの平金[釜]にて焚詰るよし、一日ニ弐俵位も出来するといへり、鎌倉の通り道に多くあり、是ゟ鎌倉江の嶋も一覧せり、此辺ハ衆人の能く知る処なれは略之金澤の塩ハ味ひ至て淡薄也
一 野嶋湊八景の一ツなり此近郷第一の津なり人家見渡[所]百四五十軒有料理屋舟宿あり、漁師町なり、六浦庄中よりの産物江戸運送の船宿[着]ニ而江戸往返とも人を乗せ往来する、故に舟宿多し、又江戸より浦賀三崎辺江の舟
 
 
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路近道出舟場也浦賀奉行通候道ニ者あらす、奉行道ハ瀬戸橋ゟ金澤へ出、山へ懸り横須賀へ出る極難所にして舟路よりハ行程壱里余も遠しといふ料理屋海辺の方に多くあり、海面を見晴らし風情[景]能き場所也、此所ゟ横須賀へ三里、大津へ四里舟路なり、此舟ハ押送りの小舟ニ而、水主弐人乗合漸々七八人を限る故に[限る事也、故に]風あしき時は通用[舟]なしといへり
   夏嶋 葉嶋 烏帽子嶋
一 野嶋より四五丁東南の方地先に一ツ之嶋山の如き岳あり、遠望すれハ夏嶋かと見違ふなり、其岳より海面十四五丁沖に夏嶋あり、廻り五八[七八]丁もあらんか、嶋の西北の方に平地少しありて麦畑見ゆる、東北之方ハ林木繁り、南西の方者芝山なり、雉子の声なと聞へたり
 
 
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(絵図)
 
 
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一 舟路ゟ右の方に烏帽子嶋あり、横の方ゟ見れハゑぼしの形ちに見ゆ、廻り三四十間斗りの岩山也、松木多し、地方ゟ三十間斗りの離れ嶋也、又葉嶋といふあり、廻り三十間斗、塩引たる時者地続也、地方ゟ弐十間斗也
   横須賀 公郷(クコウ) 大津
一 野嶋ゟ舟路三り横須賀湊へ着ク、少(スコシ)しの湊にて船も見へす、乍併江戸出しの薪、山のことく積置ケり、此所ゟ半里斗り山を越、公郷村といふ海辺に出ル、夫より又半道余大津村川越家陣屋元あり、公郷よりハ猿嶋を左の方海沖に見なから大津へ行也
一 大津村者漁師百性ニて、己か世業の手寄ニまかせたる家作りなれ共、此度川越家陣屋元となりてハ
 
 
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食類調度迄商ふ家或ハ旅宿等俄に出来、爰の山陰彼所の畑中、何某か家ニ者間数多けれハはたこや、彼人ハ知る業なれハ料理屋なそと[なとゝいふて始めたり]、小子止宿か鈴木屋といふ家なりしか、隣家といふハ壱弐丁ツヽも離れたる畑中の壱軒屋なり、俄普請の生木作り、敷居鴨居の反り曲り、戸障子さへ明けたてならねハ其儘に夜風寒きもあやしの夜着の袖に除ケ、夜明ぬれハ人々心々に木履はき、井の元へ行き釣瓶引上ケ、嗽ひの塩さへ小笊に入れあり、食器の宗和、日光膳、平の取交せ、塩の辛さ、亭主配膳、娵給仕、客大勢を一座に食事、武家山伏町人舟子入交り、見すしらぬ合宿に己かまに〳〵[様々]四方山の雑談笑敷[おかしき]事の多かりし乍併追日繁昌の土地と成へし
一 御陣屋者方百四五十間斗りと見ゆ、内ハ惣長屋作
 
 
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にて士分以上重職の人住居といへり、尤家内引越のよし也、見渡し三百竃もあらんか、御陣屋外ニ者足軽組長屋多くあり
一 当所に鉄砲方弐人弐流あり、壱人ハ外記流にて公務[義]炮術方井上家の門人也、壱人ハ武衛流の由外記流最も多しといふ猿嶋籏山十国此三ヶ所御台場外記流の持也、武衛流ハかんのん崎斗也御陣屋より五六丁西北の方山の間に角場あり、両流の小屋弐ヶ所有て、未明より黄昏に至る迄中筒小筒の音絶間なし
一 外記流大筒場ハ山の半腹草木切払ひ玉落に致し、角場ゟ五町ありといふ、未年迄ハ月々稽古有之所、当申年ゟハ年に両度ツヽに相定るよし
   猿嶋御台場三ヶ所
一 大津ゟ北四町の海水を隔てたる一帷[堆]の岩山なり、廻り三十四町余ありといふ無用の人渡海不叶、御用筋ニ而大津より渡る時ハ押送りの御用船に
 
 
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水主弐人村役ニ而出、紺地にあふひの御紋付たる籏を立、渡海するなり四方切岸高く湊なく、只西の方に弐町斗りの砂洲有るのミ、夫も半はハ水に隠れたり、一昨弘化午年迄ハ海渡する人もなく、又猥りに上陸して嶼中の物枯枝砂石たりとも取来時ハ忽ち地主の神の崇りを受ると云伝へ、人跡絶たる嶋なりといへり、乍去いつの頃よりか祭り置けん春日明神の小社有、又井戸もありといへり、東北の方ハ別而岩石峙ち切岸高く、嶋楠生へ繁り森々として漁舟は近付兼る蔭地ニ而、山の半腹に方七八間斗の岩穴あり、此中に往時より大蛇住と云伝へたるといへり去ル丙午年官命ニよつて此処御台場に相定り、丁未之十一月土木成就の上川越家へ御引渡しに相成、同家大筒方此嶋へ大炮数挺を懸ケ並、すてに十二月中旬空発心見数発に被及候処、同月廿日夕方比此嶋の辺ゟ飛物出、南の方房総さして飛行と云土人の噺しなり、予、房総の境へ浦賀ゟ渡海して土人に其事を尋るにしかりと答ふ、又上総路へ越して休泊の度毎に傍人に問ふに違ふ事なし、其ひゝき雷にあらす、地震になくすさましく、故に或人判して曰く、冨津の御備場にて百貫目の棒火矢といふものをうちたるなりと、しはらくハ其言を実として
 
 
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廿日斗りを経て申正月中旬に至り、猿嶋の火炮飛去りし与聞ゆ、誠や雲になし、霧になく、たな引て其中に長キ形ちの一物ありしといふ、上総東海辺迄ひゝきしと也嶋の東南西三方岩を割、木を伐て御台場となる、第一番を大輪戸といふ、南西に向ふ水面ゟ直立弐拾余間斗り
   三貫目玉 弐挺 五百目玉 壱挺
   三百目 三挺 以上六挺飾付有之
一 次を亥の崎といふ、地陸は大輪戸ゟ少々ひくし
   三貫目玉 壱挺 壱貫目玉 壱挺
   三百目玉 四挺 以上六挺飾付有之
此所ハ飾付方扇の地紙形なり
一 次を卯の崎といふ、亥の崎ゟ百余歩つゞらの岩坂を下り、平地拾間に弐拾間斗りの場、水面ゟ高サ壱丈あり
   五百目玉 弐挺 壱貫目玉 壱挺
 
 
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   以上三挺飾付有之
一 此嶼ハ一トかたまりの岩にして、あら砥石の如くはく[そく]〳〵崩るゝ岩なり、中に岩根といふものあり、青ミかげの如く至てかたき石なり、鎮守春日の石灯籠も此度此石ニ而修造せしといへり、きれいなる石なり、番所ハ江戸の見附の大番所に替る事なく、間口十五六間奥行拾間斗り、上中下詰所・休息所・台所、一世帯残る処なく間毎ニ附ケてあり、焚出し小屋者間口拾間、奥行の間大、釜五六ヶ所あり、井戸も此度掘たるといへり、釣瓶井戸ニ而水面まて弐丈斗りあり、少し塩気あり、嶋の廻りニて岩多く見ゆ、又隠れ岩多くありて折々不案内之廻船破るゝといへり、去未年ニも檜垣船嶋と公郷村の中間にて岩に乗掛ケ破船し、絹布類山之如く皆水に濡し、公郷村の名主の庭に積置しを
 
 
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見たると語る
一 嶋の東南の海至て深し、冨津の隠れ洲の鼻より此辺迄ハ廿余町の間ニて全く大船の走り、近ハ[道は]漸々拾余町斗りの間なりといへり、又嶋の方ニて隠れ岩多きを恐れ、冨津の方へ除ケ、又隠れ洲へ乗掛ケ汐に捨られ船操ニ破らるゝ輩年にハ数度なりといへり、故に諸国江戸入船此嶋下を以て大灘と称し、乗越
(絵図)
 
 
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(絵図)
 
 
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(絵図)
恙なきを祝ふといへり、嶋の近辺ハ深サ四十尋余も下るといへり
   旗山御台場
一 大津ゟ海辺通り南の方へ山を越し海岸を経て弐拾余町行き、嶋山のことく海面へ斗[張]出したる岩山を旗山といふ、直立拾丈斗りの山なり、頂上ニ狼煙あり、五貫目[玉]のホンベン筒也、其直下に水面より高サ
 
 
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壱丈斗広サ百四五十坪斗りの平地に御台場有
   弐貫目玉 弐挺 五百目玉 壱挺
   三百目玉 弐挺  以上六[五]挺飾付有之、何レも車台仕懸ケ、猿嶋に替る事なし、只雨覆ひ仮小屋掛ケ有之、尤取はづし自由になるよふニ仕掛ケたり
一 番所の様子猿嶋に同しくしてちいさし、六間ニ四間斗り、上下中之間取、見附の大番所の如し、常に足軽弐人中間弐人大津ゟ日々勤番ニて朝四ツ交代也、夜着[具]食事等者牛にて運送する也
一 此所の岩穴に五百目三百目其外舟発の台仕懸之筒拾三挺なり岩穴者土蔵の如ニて入口ニ開戸を〆り有之
一 此所ゟ十國御台場迄の間五六丁斗りの処湊ニて、漁師商人家弐百斗りあり、寺社共に造営美大也、又大商人あり、門構ひ煉塀作り玄関抔も有、
 
 
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(絵図)
 
 
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土蔵五六ヶ所持たるものあり、是に次するもの数軒見へたり、此辺惣して干鰯場故に是等は何れも問屋なりといへり海辺一円ニいわし干し置ゆへに其嗅気甚しく、是ニなれさるものハ頭痛或ハ吐逆をなすといへり、さもあるへし、夥しく山のことく積置けり、此辺ハ惣して走水の内也
   十國御台場
一 旗山ゟ六丁斗り、十国御台場は山積[つゝ]きの出先の鼻を百坪斗切ひらけたる場所也、掛りの様子旗山に替る事なし
   壱貫目玉 壱挺 八百目玉 壱挺
   五百目玉 三挺 以上五挺飾付有之
勤番人数其外共旗山ニ同し
一 此所より海辺三四丁行キ走り水観音堂なり、岩の出先ニ而四間に三間斗りの堂也、奥の院と云ハ岩穴の奥にあり、穴の深サハ漸々五六間斗り也、堂者
 
 
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洋中に向ふ、上総国冨津より見ゆる也、白壁ハ勿論萱葺屋根迄も見分る斗也、別当もきれいなる房ニて瓦作りなり、前に茶屋もあれとも道行人の休泊ニハあらす、皆舟人の酒食場也、常に往来ハなき土地也
   観音崎御台場并鴨井
一 観音ゟ七八丁行、水面ゟ三十間斗りの山上の御台場を観音崎といふ
   弐貫目玉、壱貫目、五百目、三百目玉とも
都合六挺仕掛ケ有之、尤扇の地紙なりに仕掛たり狼煙あり、五貫目のぼんべん筒なり、遠鏡台ありて常に見張番人あり、此所ハ外ゟ厳重ニて上番の侍五人、中番ハ足軽四人、下番中間三人、是も大津又ハ鴨井ゟ交代する也
一 此所此海辺中ニ而之斗[張]出之場所故に、御備へ向
 
 
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格別に厳重也、此見張場よりハ三浦郡内海辺松輪辺、房州洲の崎、大房鋸り山別而冨津ハ目の下に見ゆる也、又諸国之廻船追風に走る風情の美景いふ斗りなし、御台場下之岩の出先内海外海の浪境なりといふ、誠や内ハ浪もやわらかにて海辺に江戸ゟ流れよりたる芥多くあり、外の方ハ浪至てあらく、海辺きれいにて貝類の波にくだけ、さま〳〵の形になりたる砂䂰の如くのもの一円にあり江戸にて江の嶋貝といふもの也此砂の中ニさんこうじゅの枝なりといふものあり、至て少し城ヶ嶋御台場下ニハ此所より多くあり酢貝其外奇類多し、この貝、砂とふるいわけて壁を塗たるも見たり、至て見事なるもの也
一 御台場より弐町斗り南の方ニ者台場下陣屋といふあり、物頭壱人、足軽廿五人常住也
 
 
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(絵図)
 
 
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(絵図)
 
 
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一 御筒小屋あり、百目以上壱貫目迄八挺あり、何れも台仕掛ヶ舟うち筒也
一 舟小屋あり、小屋壱ツヽ押送り巾二間、長サ七八間なり舟弐艘ツヽ入れ四棟あり
一 鴨居時[村]猟師多し、町並作り繁昌の地也、御陣屋ハ山の間にあり、竈百四五十斗り見ゆ、家老壱人常住なり此所江台場下陣屋共大津より出張なり
海岸紀行 上 終