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海岸記 下
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海岸紀行[下]
東都相馬箸 越□[ナシ]□鈴
浦賀江戸ゟ十八里相州三浦郡なり
一 大津より一り、峠山坂を越し浦賀湊なり、人家千三百余入江の両側にあり、西を西浦賀と云東を東浦賀といふ、入江者南北十町斗り、東西百間余あり、家屋瓦葺板屋根作りニ而町並之様子鉄炮洲辺之川岸町に替る事なし、廻船問屋大商人数多あり荷物取捌方江戸ゟも大手広にするものありといふ
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地勢東西ともうしろハ岩山、前ハ入江なれハ、僅の場所岩石を切ならし、町家としたる土地故に、神社仏閣ハ岩山の上にあり、至て手狭なる土地なり町数東西ニて十二町ニ町宿[名]をわかつといふ
一 入江者無双の湊にて、諸国の廻船出入ハ昼夜之差別なく引もきらす、積入水上ケ片時も絶間なし、入津多き時ハ此湊中央に船道一筋開ク斗りに入込なりといへり小子逗留中ハ雨天うち続入船なく、至てさむしきといへとも、五百石積以上弐百四十余、東海船といふもの干鰯積弐三百石の船百二三十見へしなり、多時は何千と算へると云り町人男女風俗江戸に同し、酒食又替事なし
一 船番所は西浦賀にあり、見附の大番所の如し、厳重に見張、出入之船改之足軽体之もの両人立番いたし、其外役人拾人斗並居たり小子房州渡海之節、此番所前ニてハ帆をかふりかくれて通りし也、是ハ当所よりハ表向乗船渡海御法度なるゆへなりといへり
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奉行屋敷組屋敷共に山の間也、与力弐拾騎同心百人なりと
一 奉行屋敷ゟ東南の方三町斗り山の上に御台場あり、平山といふ、俗に灯明台といふ、大筒者五挺仕懸有よし公義御備場故猥に内見かなわす、只山上ゟ遠見のミ也奉行持なり、直立弐拾間余の山の上なり、狼煙遠眼鏡台ともにありといふ、御台場下海中へ斗[之はり]出したる岩の上に常灯明二三基あり、入船の目当なり
一 平山より弐三町南之方水面ゟ壱丈斗りの直地大筒三挺あり鶴崎御台場といふ、是も奉行持なり
一 隺崎ゟ拾丁余り南之方へ行、入江有、久比里と云、浦賀ゟ三崎街道の本道にて行而者一りの峠を越す斗り也入江南北一り余横弐拾丁或ハ拾丁斗りなれ共両岸新田となり、至て変化の土地也、久比里村斗りにあらす数ヶ村入会也、三浦大輔古城跡
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(絵図)
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此所にて往来の西北の方三十町斗り見ゆる大輔居城之比者城下迄湖水入江なりしと也、今日海へハ弐り半余もあり三浦合戦ニも海辺の趣見へたり、実ならず
千駄崎[川]御台場三浦郡栗浜村之内東南之方へ斗[張]出鼻也
一 此所ゟ井伊家の持場にて、三浦郡鎌倉郡伊豆之内海辺三四十里之場彦根侯の御持場也
一 御台場にハ壱貫目玉三百目玉以上六挺あり、狼煙有、仕掛ケ前に替る事なし去午年アメリカ船のかゝりたる所ハ此所の沖合廿余丁の場也陣屋あり、侍足軽も三百人斗勤番のよし
一 此所ゟ南の方直経二里斗りに斗[張]出したる岩鼻の出先見ゆる、是ハ松輪崎也、千田より松輪迄行程四里斗りの間者遠浅の海にて、波うち際を通行する也、三崎江の海[街]道なり
上宮田村浦賀より弐り半余三崎江も同断
一 千田崎ゟ弐り半余上宮田村ハ井伊家の陣屋
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元にして、家老職常住、其以下数百人勤番のよし、当所も継場とハ乍申、井伊家の人三崎へ往来のミニ而外ニ旅人なき所、町並旅籠屋も甚た見苦敷、大津村ニハ劣たる土地なれとも魚類ハ多し、此処ゟ松輪へ壱里余南東へ斗[張]出し候処なり、近々の内松輪ニも御台場出来の由、此節申の四月浦賀ニ而鋳立居候五百目以上三貫目迄五挺ハ此処へ廻るよし、当時者見張場あるのミなりと
三崎町上宮田ゟ弐り半、鎌倉雪の下へ七りといへとも遠しといへり
一 上宮田ゟ又山坂田里を越して三崎町へいたる六七町前に原村といふに陣屋あり、物頭弐人組四十人侍分弐拾人勤番也
一 三崎町うしろハ山畑又ハ岩石ニ而、海岸の岩間を切開きたる土地なれハ地面狭く、町家とても平地少し、
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諸品の問屋多くあり、六七分ハ漁師なれハ住家至而麁陋なり、人家七百六十余ありといへ共通俗千軒といふ也、西方諸国ゟ江戸出入之大船、東海ゟ中州諸方へ運送の干鰯船出入絶間なし、尤湊あるにあらす、城ケ嶋海面にあるか故に南方大洋より吹付の颶風をくしき、三崎町の前海横四五丁竪拾丁斗り之間波静にして入江のことし、故に船掛り場となる也、魚猟多き海にして四季共ニ江戸江廻る故ニ価江戸ニ替る事なし、産業魚猟のミなれハ不猟之時ハ至て困窮するといへり、土産貝類最も多し、江戸にて江の嶋貝といふものミな此所ゟ江の嶋へ出スといへり、其外奇類多し、五斗いかといふものあり
長三尺余横ハ弐尺四五寸尤鰭の如きもの左右へ出たり
頭五寸余 目方六貫目
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大凡かくの如し、しかし多くハなきもの也といへり、大鮑七八寸、尺ニも至るものあり、ほつす貝多し、漁師格別土人男女風俗いやしからす
一 町の人[入カ]口高台に井伊家の陣屋あり、重職之人侍分以上数百人勤番のよし
城下峠[城か嶋]東西五丁或ハ七町南北拾四五丁斗りの一ツの嶋山なり
一 三崎ゟ常に海舟[渡し船]あり、御用舟者送にて舟は[押送り船にて]如此紺地に文字印しとも[を]白く染貫たる舟印し[を]たてたる役舟ニ而渡るなり、海上僅四五丁なり、人家七拾壱軒寺一ヶ所社大小三ヶ所有、土人ハ皆漁師也、江戸佃嶋ゟハ人家造作よろし、嶋中央ハ一平地にして畑斗り也往年天保度五六年の間飢饉不漁ニよつて此所新田開発となし、麦作夏作とも出情致すよし、勿論男子ハ魚漁婦女の農業とする事、皆天保年間ゟの事なりといへり、此飢饉にハ此辺ハ別而こりたるといへり、故に今に至りても新田畑の農業出情尤よろし、夫ゟ前ハ漁業の外農耕の業するもの
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なかりしといへり嶋の四方ハ巌[岩]石峙たる拾五六間ツヽの切立岸也、廻りニハ隠れ岩多くあり、南の方ハ大洋ゟ吹付る大波岩にくたくる音すさましく、人語も通せさる程のひゝきなり、是にかわりて嶋中は物しつかにして地味も亦膏腴なり
一 御台場ハ嶋の辰巳の方に有、安房の崎といふ水面ゟ高サ拾四五間、上番侍分三人、中番足軽弐人、下番中間四人ツヽ日々三崎陣屋ゟ交代也
壱貫目玉 壱挺 五百目玉 壱挺
百目玉 壱挺
狼煙拾貫玉目[目玉]也といふ大碩炮なり、龍のもよふ鋳付あり、此御台場下岩之間に浪にゆられ打寄たる貝砂の中にさんご砂其外江の嶋貝といふ類ひ夥しくあり、又嶋の未申の方に篝場
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といふあり、官より夜毎に松真木三拾余策[束]ツヽ被下沖乗船の目当とするといへり或舟人曰、闇夜ニも沖あひ三り位余迄見ゆるといへり伊豆大嶋之[は]目の前[下]に見へたり、快晴の東天にハ木と山と見わかるといへり、十八里といへとも近しといへり、其外伊豆の山々房州洲の崎鋸山冨津の洲中にも高きは箱根山、雲をつらぬく冨士の高根其外眺望言語に尽しかたし
網代湊三崎ゟ一り余西北の方也
一 西北に向ひたる入江なり、切岸高く岩石の間より松柏生ひ繁り水面に覆ひ掛りたる枝江船を繋く也、海深くして碇り立ゝすといへり、少しの岩間に漁師住居せり、此湊ハ豆州下田ゟ浦賀へ入津の廻船大南風の節者城ヶ嶋の南西乗切兼候ニ付、此所へ舟掛りして日和を待といへり、此所に三浦
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道寸の米蔵といふあり、岩山の横へ穴を掘り畳拾四五枚も敷程の平地にして、高サも又是に相応せり、惣して此一郡ハ三浦家代々の領地なれハ古跡最も多し、城ケ嶋ハ城跡なり
三崎ゟ海陸里[四方へ]数并方角
一 江戸 北 浦賀通り廿二リヨ鎌倉通り廿一里半ヨ
一 上サ冨津(フツツ) 寅 海陸共九りヨ
一 浦賀 同 同 五里ヨ
一 房総境鋸山 卯辰 海上 六里ヨ
一 房州洲の崎 午 同 七里ヨ
一 同大房(ダイブサ) 巳 海上 六里半ヨ
一 伊豆大嶋 酉初分 同 十八里ニ近シ
一 同下田 同中分 同 三十里
一 冨士山 相州箱根山同大山 亥初分
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(絵図)
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一 江の嶋 亥中分 海上七里ヨ陸道拾里ヨ
一 鎌倉 同未分 陸拾[路]七里半ヨ
右何れも陸路者大方弐[五]拾丁斗りの一里ニして[又]山坂難所故に甚た遠し、別而武州久良岐郡より相州三浦郡者真土へな土交りにて、山坂のミなれハ雨日者往来難渋なり、又一郷一村の境大くハ切通したる切処也、迚も大勢押かたき地なるべし、岩とハいへ共柔らかなる故に日向能所へハ横穴を掘、物置となしたるもの幾等もあり、或ハ曰、神代穴居の跡なりといふもの多くあり、いかゝ
腰越御台場三崎ゟ海上七里ヨ陸路九里
一 鎌倉腰越の丘に御台場あり、八王子台場といふ、壱貫目以下三挺仕掛ケ有之よし、道[常]ニハ守兵なし、月に六度三崎町陳屋より見廻るといへり、土地宿[ナシ]
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役人に預ケ置よし、後ろの方に火薬蔵もあり、惣して此海辺通り豆州の内川名村字石取といふ所迄三崎ゟ十八里、井伊家持場にて家老壱人常住の陣屋ありて、数百人勤番御台場ありといふ、伊豆の国東表にて三崎の方への鼻なりといへり
房州
一 当国江者渡海不致候得共、現見の地にあらす、只衆人の話噺[説]のミなれハ著しかたし、大凡之一二左のことし
一 房総之国[房総二国の]境鋸山ハ実に鋸の刃に似たり、中にも奇なりとするハ上総の山ハ上総の方へかたむき、房州分の山ハ房州の方へ曲りあり、大躰壱ツ置にかくのことし、故にのこきりの名ありといふ
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保田五百らかんハ此山の内なり、名古のかんのんも絶景のよし、惣して房州ハ忍家の御持場ニ而大房州の崎白子等にハ御台場あり、夫ゟ東の方内浦七浦小湊ゟ上総勝浦辺まて御備場といへり
上総の国 海辺
一 浦賀より向路上総の国へハ何れへも海上三四里ニも不過、尤人を乗せる事内々也、荷舟戻りを頼ミ乗合[ナシ]故に多く押送りの小舟にて水主三四人位也、小子渡海の日ハ折あしく湿風日和ニ而風強く浪荒々して度々水をあびたり、浦賀より弐里斗り出る洋中に潮送といふあり、巾ハ僅五六間長サハ里数量りしれすといへり或人曰、十余里もあらんか汐時にゟ流れ早くしてわつか五六間を乗切内ニ舟弐三間も流れるよし案するに八丈嶋ゟ三宅嶋の間にある黒瀬一名黒瀬川[黒瀬表黒瀬川]此類か皆江戸大入江の海水
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差引の道なるへし
一 浦賀海獺(アシカ)嶋者方十間斗の一盤の岩山也、日和なきの日ハ嶋一面にあしか上り、寝居るよし
一 房州大房の海手に浮ヶ嶋見ゆる、一雄[堆]の嶼山にて猿嶋程者ありしと見ゆ、頼朝公の古跡ありといふ
一 浦賀ゟ海上三り余、上総国天羽郡荻[萩]生といふ小村へ渡したり、浦賀朝五時乗出し半時斗りにして乗着たり、此辺岡手の方ハ岩山にて平地なし、海辺に少も平地なる処へ家居を建たる、漁師又船乗りなり、産業男女とも漁の間ニハ海草を製すあらめやわかめ、かためひしき此類の水草、山のことく海辺に打寄あるを拾ひ取て干し、或ハ蒸してゆで、あらめとなし諸国へ積送るといへり、此辺ゟ奥之方房州ハ皆かくの如しといへり、又江戸の方へ寄たる[に]したかい
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(絵図)
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平地多くなり、田耕農業の場[耕農の場]多し、海草を製すも冨津を以て限とし、夫より内江戸の方ハ大に土地よろしく大体農耕六七分魚漁ハ三四ならんといへり、男女風俗ハ三浦郡にハ大ニ劣り、土地ハ、山ハ[山]野地、里[野]ハ砂地也
竹ヶ岡御台場地之惣名ハ百首也
一 萩生ゟ一里、百首村海辺ニて町家也、会津家陣屋あり、弐百竃もありといふ、海端ニ御台場有、竹ヶ岡といふ、元白川故越中侯初而御造築の場也といふ、けたうちの場也、水面ゟ壱丈斗り仕掛たり
大筒三挺外ニ壱挺ハ三四間引下りて仕掛ケたり、大炮なりといふ、ボンベン筒ならん
仕掛ケ方外御台場に替事なし、勤番所ハ拾間斗りの山上にあり
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(絵図)
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大坪御台場
一 百首より弐里余、八幡村ニ御台場あり、大坪台場といふ、佐貫の領主阿部家の持場也、水面ゟ行程弐丁斗りの山上にありて大筒三挺ありといふといへり共松木繁り他見叶わず、又手寄なけれハ一覧もならず、空しく右ニ見て礒辺を行過ぬ
冨津御台場上総国周集郡飯野領
一 八幡村ゟ海辺三里斗り冨津村、江戸ゟ房州江の街道ゟハ一里余、海手の方へ斗[張]出したる漁師村也、当所も白川侯の御造築にして東都衛護天下咽喉の地にして日本無双の活洲なり、則ち相州大津猿嶋対峙して、其間一平の海水を隔る斗り也、凡此大入江の内ニも砂洲斗[張]出、大なるもの六ヶ所ありといへともいづれ
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も川水流出し土砂にて押埋たるものにして、年々の洪水の多少にしたかひ洲ニ広狭遠近不同ありて一定しかたし六洲といふもの羽田大師河原の洲本牧の洲猫実の洲已上三ツ武州に属す、但し猫実ハ国境也大堀の洲富津の洲五井の洲已上三ツ上総の国中也冨津の洲は右に同しからす、川あるにあらす山あるにあらす平地より次第に斗[張]出して草木生せさる砂地、常陸[常々]の干洲拾丁余、夫ゟ潮指たる[ます]時ハ隠るゝ場[洲]拾丁余、又常に隠れある洲拾五六丁にして終り、俄に深サ廿四五尋の蒼海となり、猿嶋の方へ向ひ、ハ[むかへ]ハ四拾尋も下る場所ありといふ、又猿嶋近ニ者隠れ岩多くあり、旁此辺を以て通船の大難所といふといへり、誠に比類なき守衛の場所土俗是を称美して天下洲といふ、当時会津家陣屋元にして長屋大造に見ゆ[作る]、上下数百人詰居る
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といふ、陣屋ゟ海手の方へ四五町隔りて張番所あり、其傍に江戸日本橋の魚河岸土蔵納屋のこときものあり、是ハ此地平場故に見隠れ場の為なるや、夫ゟ又二三丁離れ御台場あり、何れも仕掛ケ相州に同し
大筒三段に仕懸ケ見ゆる、壱段三四挺となり其陰にもありといふ、火薬蔵もあり、常に早舟繋あり、紺地に白く染抜たる小印立あり、当家にハ大筒数多あり、別而唐製也といふもの多くありといへり、当所の洲を廻れハ海相俄に柔らかになり、小浪にして[本ノママ北濱より]海静なり、又塵(ヂン)芥海辺に多くありて穢く江戸海辺に替る事なし、冨津の隣村に飯野といふあり、保科家在所なり
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冨津ゟ東都迄海辺の惣説
一 飯野より二里余小糸川の押出しの洲を大堀といふ海面也、拾七八丁斗[張]出したり
一 冨津より五り余木更津町望陀(モウダ)郡の内なり上総第一の繁花なり、人家千余、北南[西]に大別して、又、拾余町に小別あり、西[両]上総房州ゟ江戸へ諸荷物運送旅人乗合之湊也、貝淵林家陣屋者町の入口にあり江戸の江戸橋ゟ出入とも乗合船出ル五大木船ニて百五十石位を最大とす江戸ゟ海上拾三里日並よき時ハ一時ニ往返有、故に土人日帰りの用足しニ江戸へ来る事毎日といふ
一 番津の洲木更津より二里余あり、小櫃川の流末にして武州神奈川大師海[河]原の方へ斗[張]出し、一里余海中へ出たり
一 大[五]井の洲は番洲より四里斗りあり、是も養老川の落口也、江戸の方へ向ひ三十丁[三丁]斗り斗[張]出し
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たり
一 八幡町八幡宮あり、当国のやはた也、是より一里斗り村田村に川あり、是を上下総州の国境とせり
一 村田より半里斗り濱野村といふ小湊あり、東上総下総辺より諸荷物運送の津なり、江戸小あみ町壱丁目より出船斗り乗合多し海上六り舟ハ五大木也、生実森川家陣屋の濱の村ゟ十八丁岡手山の方にあり、千葉寺大願寺も此憐[隣]所なり
一 濱野より一[二]里寒川(サムカワ)村、佐倉堀田家水防の場所なり、押送りの早舟拾五六艘ありといふ、ミな土地の漁師へ無年貢ニ而御預ケ被置候よし、月毎ニ佐倉より舟発艫櫂超煉[調練]に大勢来るよし、千葉町も
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此所より十丁ばかり東の方也、往昔ハ関東名誉の地なれ共、方今ハ街町の跡かすかに残り人家僅かに三百斗りあり
一 寒川より一里、登戸村ハ成田辺より鹿嶋・香取、惣して常州・北総の諸荷物江戸へ運送の湊にて、小あミ町一丁目より出入共乗合あり、海上[六里に近し]
一 登戸ゟ二里半検見川継場也、此町北の方出口に印旛沼掘割川あり、拾間斗りの板橋掛り川巾も又七八間あり、則ち天保度印旛沼掘割口ニ而、此所より壱り余川上迄ハ大茶舟[大舟]も入るヽよし、夫より先者駄荷六七駄積の小舟にて俗ニヘカ舟といふ至てちいさき舟也通用し、又印ば沼辺ニ而者大舟に積移し、夫よりハ印旛諸方利根川より常州迄も運送すると云り
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一 検見川より二里半舟橋宿迄成田・鹿嶋・香取の往還にして最も昌盛繁花なり人家五六百余あり太神宮ハ関東一ノ宮といふ
東照宮 御宮是を舟橋御殿といふ四月十七[七]日武家参詣多し
一 舟橋ゟ二り行徳町此間者古跡最多し日武尊[本脱カ]の上り場袖ヶ浦真間の浦かつしかの里共外数多し此辺関東随一之塩浜なり、行徳より一里余南の方に堀江村猫実村といふあり、新利根川の押出し口にして、干洲者僅にして隠れ洲ハ一里余もありといふ、下総国中ゟ江戸入津の舟常に恐るゝ処の洲也去ル天保五年の五月小子登戸船ニ而帰府之砌、出帆の比ハ南風静に吹夕七ツ時比ハ小あミ丁へ入津あるへしと昼九ツ過に乗出したる処、風落海なぎ少しも船歩行せす、おりふし七八間斗りの鯨魚二ツ浮ミ来り、舟より弐十間斗りの近きに両三度浮あかり又遠方ニて十五六間もあらんかといふ程の大きなるか空中へ高く塩吹上るも見へたり、其外すなめり鮫の種類の弐三間余もあらん程なるもの又ハ飛の魚・くらげ・いわしなとうかミ出、いともめつらしく見居たるうち、俄に南西の空一円に曇り大風吹出し
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水主舟頭ハ彼よ是よと狼狽するうちニ、船かたむき一寸も動かす、是ハいかゝと思ひわつらふうちに、帆も下け帆柱もたおしけれハ船ハ直ニなりたれとも其侭ニて不動、いかんと問へハ猫実の隠れ洲の支流へ乗掛ケ汐に捨られたり、差潮にあらされハ走りかたしとて碇を引而、其夜すから心をくるしめ夜明に至り潮をまちかろふして翌日四ツ過小あみ丁へ乗込あり、此洲本洲にあらす支葉故に船損せすと水主も歓ひたり、あやうき事なり
一 行徳より日本橋迄陸道三り半舟路小あみ町まて三里に近し
一 南総冨津ゟ北総行徳迄の海辺、凡弐拾里余之間何所も同し遠浅の海にして、長日の内ハ一里余とも干潟となる場多し、故に貝類を取て業とするもの頗多し、其種類数多あり、蜊・蛤・はか貝・猿坊貝・赤貝此類の貝ハ此海を以て関東の冠とす、其多き事斗りしれす、貝からの灰ハ火に強きを以て大都会初関東諸国の土蔵皆是を最上として道築[運送]するを以て知るへし、又此海は
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魚類夥しく産し、味ひ又諸国に並ひなき事ハ衆人の知る所なり
一 大都会の余光を以て産業を賑わし、其国肥潤する土多き中にも、関八州者抽て江戸の為に其土地□[の]繁昌する事能衆人の知る処なれとも、山海三十里を隔てたる房相の野山に松木大木なし、悉く拾年斗りを以て限として薪材に切尽し跡へハ直に苗を植付る故に、松山に大中小を分ち、遠見すれハカルタの札をちらしたるか如し、樹木すらかくの如し、増して食物器財におゐてをや、誠に世界三大都府[三都大府]之冠たるとかや、ありかたき事ともなり
海岸紀行下終
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嘉永六癸丑年夏、友人相馬氏用事在之、相州ゟ上総へ旅行の折から、武相及ひ房総の海浜を巡覧して当時外備防禦の守衛厳かなるを畏ミ、且大江戸余光を以て近郷に至迄の繁華なるを愛て見る所の端々を記して上下二冊となして筥中御納め遺忘にそなへしを借得て、竊に書記し猥に他見不許□[もの]也
嘉永七甲寅年五月