【一】「海岸紀行」について

(1)船橋市西図書館所蔵の『海岸紀行』(以下『船橋本』と略記する)の形態は、上下二巻二冊で、表紙は後装のものと思われるが、それぞれ「海岸記行上」、「海岸記行下」となっている。しかし、上巻本文冒頭には、「海岸紀行 上 東都相馬箸印」の記載があり、また下巻本文の始めには「下」の表示はなく、「海岸紀行 東都相馬箸印」と記されている。また、当文書の丁数は表紙を含め、上二十四丁、下三十丁、計五十四丁である。
 
(2)「海岸紀行」には多くの写本や、表題を異にする類本が在り、本史料集の解題にも左の①~④が列挙されている。
 ①横浜市歴史博物館蔵 「海岸記聞」
 ②東北大学狩野文庫蔵 「海岸記聞」
 ③国立歴史民俗博物館蔵「海岸記聞」
 ④東大史料編纂所蔵  「海岸紀行」
またこの他にも私見(翻刻文ではあるが)のものだけでも
 ⑤「浦賀見聞誌」(横須賀開国史シリーズ2『三浦半島見聞記』所収、原本『浦賀見聞誌』愛知県西尾市岩瀬文庫蔵)
 ⑥神奈川県立図書館蔵『仮題江戸湾防備見聞記』
       (原本『相州御固図記』神奈川県立公文書館蔵)
 ⑦「海辺廻見物語」(『日本海防史料叢書第七巻』所収)
などがある。その内⑤『三浦半島見聞記』中には、「『浦賀見聞誌』が成立したと思われる弘化四年ごろには」と記された箇所がある。また⑦『日本海防史料叢書第七巻』の解題に、
  「海辺廻見物語」は、原本帝国図書館所蔵であって、弘化午三年における役人の江戸湾沿岸、即ち三浦半島、房総半島迄の各地台場の巡検記である。此年恰も米船が屡々浦賀に来泊し、又英船は南海に、魯船は北海に出没し、海防論の喧しかった時である。
とあり、旅行の時期が記されているが、内容については、川越藩を細川家、彦根藩を毛利家、会津藩を立花家と取り違えるなど、ペリー来航後、嘉永六年(1853)十一月以降の新海防体制と混同されており、原文書の確認はしていないが、右解題の弘化午三年(一八四六)というのは、誤りと思われる。
 右の⑤~⑦は、題名がそれぞれ異なり、内容には、誤写あるいは誤読と推察される程度の差異はあるが、旅行の順路や場所、また台場・陣屋の様子などが記された内容は全く同じで、おそらく大本の底本は、相馬某なる著者の記した紀行文であったと思われる。
 
(3)「船橋市西図書館の古文書を読む会」では、右の内、④の東大史料編纂所々蔵の『海岸紀行』(以下『東大本』と略記)との校合を行ったが、『東大本』では、『船橋本』とは逆に、表紙に「海岸紀行」とあり、本文冒頭には、「海岸記行上 東都 相馬著」とある。本文中には、語句や数字の異なる箇所がいくつか見受けられるが、誤写に起因するものが大部分かと思われる。
 尚、本文中の校異は、文字や語句の右側に〔 〕で示した。
 (例)斗(〔張〕)出とあるは、『東大本』では「張出」と記されているという意味である。
 
(4)横浜歴史博物館「NEWS3」での「海岸記聞」紹介記事によれば、「海岸紀行」との大きな相違点として、著者の旅行時期が、「海岸記聞」には嘉永元年夏とあるのに対し、「海岸紀行」では嘉永六年夏としている点を挙げている。この点については、『船橋本』の跋文には、嘉永六年夏と記されているが、「解題」でも指摘されている大津村陣屋での大砲稽古のくだり「未年までは云々」、また猿島台場での記述「一昨年弘化午年迄は云々」から推察すると、旅行時期は嘉永元年(1848)であったと考えられる。但し、『船橋本』が書かれた時期については不明である。