(1)「東京湾は、首都圏臨海部と房総半島、三浦半島に囲まれた、面積一三八〇㌔㎡、容積約六二・一㌔㎥の閉鎖性の内湾である。横須賀市観音崎と富津市富津岬の間の湾央狭窄部(幅約七㌔m)により、内海(観音崎~富津岬以北の海域)と外海(湾口部)の二つの特性を有しており、特に内海においては外海との海水交換が制限された閉鎖性の強い海域となっている」(国交省関東地方整備局海洋整備技術課作成「東京湾水環境再生計画」)。
(2)「海岸紀行」(※註1)の行程は大師河原(現川崎市)を振り出しに、三浦半島を周って、浦賀より上総の萩生(現富津市)へ海を渡り、江戸湾内海の海浜沿いを行徳まで、海湾防備の有様を具に見聞しながら旅したものである。尤も、江戸湾という呼称は当時は無かったようで、東大史料編纂所の保谷教授は、「お台場と江戸湾防備」と題する「有隣堂座談会」の中で「現在、東京湾と呼ばれているところは、近世には「内海」とよばれていた、そこをペリーは「エド・ベイ」と言った。江戸湾という言い方はペリーあたりから来ているように思いますね(※註2)」と述べられている。
また、『江戸東京湾事典』には、「一八世紀のころ、ひんぱんに異国船が東京湾に来航し、彼らが測量して作図した地図には江戸湾(Gulf of Jedo(英))の名がある」と記されている。
(註1)以下文中で「海岸紀行」とあるは、『東大本』『船橋本』共通した一般名詞として表している。
(註2)「有隣」第四五八号 お台場と江戸湾防備(2)座談会