著者相馬某が江戸湾海辺を旅行したのは、江戸湾の海防体制が「御固四家体制」に移行した頃と思われる。
(1)幕府は、弘化四年(1847)二月二十五日、江戸湾における防衛力拡充のため、それまでの川越・忍二藩体制(天保十三年〈1842〉八月以降)に加えて、新たに彦根・会津の二藩を警備担当として選任し、相州側に川越藩と彦根藩、房総側に忍藩と会津藩という、まさに譜代トップの溜間詰四藩を配置する海防体制をとった。これがいわゆる「御固四家体制」と云われるものだが、浦賀港の警備を担当する浦賀奉行所を加えて、実質的には五つの警備主体が存在した。
(2)また同年三月、新たに下令された海防政策は、文政二年(1819)以来堅持されてきた「観音崎・富津辺にて差押え、右要地をも越え候節ハ、速に可打払」という異国船への対応を、「たとひ富津の要所を乗越すとも、渡来の事情を尋察し、穏便に扱ひ、臨機の処置あるへき」として、武力衝突の回避を基本方針とするものに変更された。その一方で、列強の砲艦外交に対する抑止力形成という観点から、西洋流砲術が導入され、沿岸台場の整備や火力の増強が従来にない規模で実施された。
(3)御固四家体制は、ペリー来航の嘉永六年(1853)十一月まで続くのだが、「海岸紀行」には、川越・彦根・会津三藩の持ち場については記されているが、忍藩についての記述が見当たらないのは、著者が安房国に入っていないためであろうが、その理由は不明である。