【四】海岸紀行の旅行時期及び目的

(1)御台場の増廃
御固四家体制(1847~1853年)による、海防強化が進むにつれ、江戸湾とくに相州側に多くの台場が築かれたが、廃された台場もある。「海岸紀行」に記載されている、平根山・鶴崎の両台場は、彦根藩の持ち場となった千代ケ崎台場に統合され、嘉永元年(1848)廃止、観音崎は嘉永三年(1850)に決定し、同五年に廃止されている。平根山は文化八年(1811)、観音崎は翌文化九年に、会津藩が築いた最も古い台場だが、廃止された理由は古くなった為ではなかったようだ。
 前掲の『三浦半島見聞記』所収の「浦賀湊略図」説明文の冒頭に、「浦賀湊御台場、以来平根山江御取建、其後鶴崎御取建二ヶ所共大炮五挺宛御備之処、平根山は海面より、三四十間高く 天保年中御小人目付小笠原貢蔵測量四十二間之由 打払便利不宜、鶴崎は平地ニ御座候得共場所狭く御筒増候儀難相成ニ付、嘉永元年二ヶ所共御山千代崎江御場所替、大炮十五挺御備、平根山は遠見御番所ニも相成候由」
とあり、また文中「相州鴨居村之内 観音崎御台場下番所略図」の説明に、
「一、同高サ見渡凡水際より二十間余有之、打払不便利ニ付此度御場所替仰出候由承申候(後略)」
とある。また、観音崎については、江川太郎左衛門が、老中水野忠邦の命を受け、天保十年(1839)一~三月に、江戸湾御備場を見聞し、同四月その報告の中で、観音崎台場について「直立二十七間ニテ、(中略)直立ニテハ大筒放発、便理不宜候間(後略)」と述べ、遠見番所はそのままにして、台場を下の長崎へ引下げることを進言している。
 
(2)右のことから二つのことが推察できる。一つは、「海岸紀行」の内容と右の台場三か所の廃止時期から判断すれば、著者の旅行時期は、少なくとも、嘉永五年(1852)以前であるといえる。二つ目は、台場築造場所の条件として「水際よりの高さ」が、かなり重要なポイントであった、ということである。
 「浦賀湊略図」説明文末尾には、嘉永四年三月、澤出善平とある。これは紀行文ではなく報告書であり、その内容は、浦賀湊の略図の他に三浦半島の台場九ヶ所と、八王子遠見番所、それらについての見事な描写と簡潔にして要を得た説明であるが、台場の説明には必ず、その地形の高低、特に「水際よりの高さ」が記されている。
 「海岸紀行」にも又、絵図十二枚が付されている。その大半は台場・大砲・陣屋及び近辺の見取り図で、台場については、どれも、水面よりの高さや場所の高低が記されている。このことは、報告書と紀行文との違いはあるが、台場を見る視点は、絵図と共に、両文書の大きな共通点である。解題にも記されているが、著者は相当の砲術の知識を有していた人物で、旅行の目的は当時の海岸御備場の視察であったと思われる。