(1)台場守備は、施設費は幕府が負担したが、大砲などの武器は各藩の負担であったので、藩により優劣があった。また製砲技術は遅れていたので、砲台に備え付ける大砲の製造は需要に応じきれなかったという。
(2)当時の大砲は、和流砲術が中心で、ほとんどの藩に砲術流派が複数あったようだ(『藩史大事典』)。先述の座談会で保谷教授は「たとえば川越藩だと、井上流、田付流、武衛流とか、様々な流派があり、大砲一丁ごとにそれぞれ秘伝があって、弾の大きさと火薬の量、打ち手は誰というふうに決まっている。こうした和流の砲術が、西洋の統一された軍隊としてのペリー艦隊に立ち向かっていこうとした。そこに無理があるんじゃないかというのが、私の感想です。」と語られている。
(3)「海岸紀行」で台場の説明に、一貫目玉や五百目玉、またホンベン筒等の単語が度々出てくるが、「この頃の大砲は口径ではなく、使用する弾丸の重さで呼ばれており、玉の重さが三十匁以下を小筒、三十~百匁を中筒、百匁以上を大筒、または一貫目以上を石火矢とよんでいた」(『房総の幕末海防始末』より筆者要約)。また『江戸湾海防史』には、「川越藩が、西洋砲術の導入に着手したのは、弘化四年のことで、四人の藩士を江川太郎左衛門の韮山塾へ入門させている。相州警備で西洋砲術導入の動きが出るのは、嘉永四年以降のこと」(筆者要約)と記されている。
また、ホンベンについても、同書に「(前略)これら火砲のうち、「狼煙筒」ないし「ホンヘン筒」とあるものは、狼煙玉(信号弾)およびボンベン(Bommen炸裂弾)のいずれも発射可能な、和流の曲射砲と考えられる。ちなみに、五貫目玉が四十ポンド(口径約一七六粍)・十貫目が八十ポンド(口径約二二二粍)に比定されるほか、「三貫目ホンヘン筒」については、二十四ポンド(口径一五〇粍)の和製臼砲と推定される。川越藩では、天保十四年(1843)相州警備を一手に任された際、大筒二十四挺の製作を幕府鉄砲方井上左太夫に依頼しており、備砲の多くが井上(外記)流の製作であったことを、うかがわせる」とある。
(4)外記流=井上流ともいう。流祖は井上九郎外記正継。播州英賀城主、井上正信の孫、父は政俊。正継は幼くして砲術を好み諸流を兼修して一派を開く。初め酒井忠世、のち将軍秀忠に仕えた。正保二年(一六四五)稲富喜太夫直賢を砲術上の争論から殺害し、自らも傷つけられて没したが、子孫相次いで幕府の鉄砲方となる。
(5)武衛流=流祖は、武衛市郎左衛門義樹。松平伊豆守信綱の家臣の松永里之助に就いて、臼砲の術を学び、大短筒を工夫した。貫流と号し、世には武衛流として知られた。