【六】房総の台場

 「海岸紀行」に記されている房総の台場は、竹ヶ岡・富津・大坪の三台場のみであり、いずれも現在の富津市に在る。前述したように、安房の洲崎・大房崎台場については、何も記されてはいない。
弘化四年二月、会津藩は房総警備を命ぜられ、八月十五日に竹ヶ岡台場、十六日に富津台場が、忍藩から引き継がれた。
(1)竹ヶ岡台場(現、富津市竹岡字陣屋)
 陣屋は、城山(造(つくろ)海(うみ)城跡)に置かれ、陣屋の東1・5㌔に台場があった。当館所蔵の弘化五年(1848)の「江戸防備諸炮台之図」の「上総竹ヶ岡炮台」絵図では大砲は横一列に三門並んでいる。「海岸紀行」竹ヶ岡御台場の記述にも、大筒三挺とあり、砲数は一致している。
他方『房総の幕末海防始末』によれば、「嘉永三年(1850)勘定奉行石河土佐守らの江戸近海巡検の際、随行の絵師の描いた「近海見聞之図」には、「竹ヶ岡砲台」は二段で、上段に五門、下段も五門の大砲が描かれていた」と記されている。このことは、著者の旅行時期は、嘉永元年頃であることを裏付けている。
 
(2)富津陣屋と台場(現、富津市富津町)
 この陣屋と台場は、天保の頃より置かれ、施設が強化されたのは会津藩の時代である。台場は富津岬の基部にあたる西下洲原に築かれ、陣屋はやや内陸の平坦地にあった。前掲「江戸防備諸炮台之図」の「上総富津炮台」の絵図には、砲台九ヶ所の絵のみで、大砲は描かれていないが、「炮台九ヶ所、大筒十挺」と付記されている。
 
(3)大坪村台場(現、富津市亀田字大坪山)
 天保十三年(1842)、佐貫藩(一万六千石)藩主阿部駿河守正身が、竹ヶ岡と富津の中間に当たる、大坪山(標高821m)に砲台を築いて、砲五門を据え番兵を置いたという。しかし、砲台には本物は一門しかなく、あとは丸太を黒く塗ったものだったと伝えられている。
 
(4)房総台場の終末
 房総の台場は、安政五年(1858)に、富津台場を残し、他は廃止されることになり、竹ヶ岡陣屋と砲台は、翌六年には竹岡村に管理が移管され、文化八年(1811)白河藩によって築造されて以来、約五十年の歴史に幕を下ろした。