(1)杉田の梅林
杉田村(現横浜市磯子区)一帯では、地質が悪く穀物や野菜づくりに適さないため、梅の木を植え実を採ることが盛んであった。「風土記稿」によれば、初めて植樹され、化政期(一八〇四~三〇)には数千株の梅林となっていた。梅はすべて単弁で実りがよく、江戸では杉田梅と称された。
(2)六浦(むつら)・金沢(かねざわ)(現横浜市金沢区)
中世では、平潟湾が今の京浜急行金沢文庫駅近くまで、入込んでいて、六浦は天然の良港として、東京湾からの物資や人を集積する津として賑わい、嘉元三年(1305)金沢貞時が瀬戸橋を架けて、瀬戸と金沢を結びつけたのを機に、六浦と金沢は一の地域としてまとまりはじめたが、鎌倉幕府滅亡後は、六浦津に入る船も少なくなった。
江戸時代当初は、六浦・金沢は天領であったが、元禄十二年(1699)三月に米倉氏(下野国皆川)の所領となり、享保七年(1722)に米倉氏が、陣屋を皆川から瀬戸に移し、六浦藩を立藩した。多くの家臣も瀬戸に移住したことにより治安もよくなり、以後流通の拠点として復興することになる。
(3)金沢八景
かっての金沢は、瀬戸の内海と呼ばれた入り海が広がり、それを取り巻く岬や丘陵による風景の美しさは、中世より知られており、中国湖南省の「瀟湘八景」に倣って金沢八景と名付けたものだが、それぞれ、洲崎の晴嵐・瀬戸の秋月・小泉の夜雨・乙艫の帰帆・称名の晩鐘・平潟の落雁・野島の夕照・内川の暮雪と名付けられている。だが最初からこのように決まっていたわけではなく、これを決定づけたのは、水戸光圀が招いたという、中国からの亡命僧心越禅師が、箱根温泉に行く途中に此処金沢で詠んだ「金沢八景」の詩であると云われている。近世になると、江戸城の本丸御殿には、金沢八景が襖絵に描かれた間があり、「金沢の間」と呼ばれという。
(4)三浦道寸の米蔵
油壺湾(神奈川県三浦市)を見下ろす崖の上に、新井城跡がある。名族三浦氏最後の当主である三浦道寸義(よし)同(あつ)が、北条早雲の大軍に囲まれ討死した場所で、道寸墓前にある三浦市の「説明板」には、「日本籠城史でもまれな凄惨な攻防は三年にわたり、永正十三年(1516)七月十一日、義同以下城兵ことごとく決戦に臨み、ここに、さしもの三浦氏もその歴史の幕を閉じました」と記されている。荒井浜と油壺湾に挟まれた崖下、海面すれすれの所に「道寸の米蔵」といわれる、洞窟があった。馬千頭分の米(二千俵)を収納できたことから「千駄矢倉」と呼ばれた。現在は、東大臨海実験場の、施設の一部として使用され、洞窟の入り口は、外部から見ることは出来ないようである(※註3)。
(註3)三浦市教育委員会生涯学習課 文化財担当者 談話
(5)海獺島(アシカ島)
字面から、ラッコ島ともいう。横須賀市久里浜海岸から、約一㌔沖にある無人島で、大小二つの岩礁からなり、大きい方には白い灯台、小さい方には白い建物が建っている。明治の頃までは、アシカが棲んでいたので、その名称があるという。
(6)天下咽喉の地
富津洲といわれる富津平野の突端に富津岬がある。東京湾のほぼ中央あたりで、西に向かって大きく突き出た、長さ五㌔ばかりの尖角洲である。岬からわずか7㌔の対岸に観音崎があり、前述したように、幕府は、この線を結んで江戸防衛の最終ラインとしていた。
(7)盤津干潟(木更津市)
盤津干潟は、清澄山を水源とする小櫃川河口に広がる、東京湾最大の自然干潟で日本の重要湿地500指定地に含まれている。「木更津市ホームページ」には、「小櫃川河口から、東京湾に広がる最大で一四〇〇haに及ぶ広大な干潟で、現存する東京湾最大の干潟で、干潟の環境に適応した珍しい動植物の宝庫となっている」とある。
(8)東京湾の干潟と藻場
「昭和40年(1965)代から50年(1975)代にかけての、大規模な埋立により、東京湾の水面面積の約2割に相当する約二万五千haが埋め立てられ、干潟については、現在(二〇〇〇年)は、約一七三〇ha(うち、人口のものが約五〇ha)と、明治後期の八分の一程度である。現存している自然干潟としては、盤津干潟・富津干潟・三番瀬・三枚洲・多摩川河口がある。
東京湾に分布している藻場は、砂泥性藻場のアマモ場が富津干潟、盤洲干潟に生育しているほか、ガラモ場、アラメ場ワカメ場等の岩礁性藻場が、千葉県の富津以南と神奈川県の三浦半島周辺に生育している」(前掲「東京湾水環境再生計画」より筆者要約)。
(9)東京湾の漁業生産量
「海岸紀行」には、江戸湾の豊富な魚や貝類についての記述が、随所にみられるが、右の埋め立てにより、干潟の貝類の漁獲量が大幅に減少し、東京湾生産量は、1962年の15・8万トンをピークとして、2003年には5・4万トンにまで減少している。内、2・4万トンが養殖の海苔で、残りが漁獲量だが、その大半が貝類でアサリとバカ貝(アオヤギ)が主体である。
(10)世界三大都府之冠
「海岸紀行」が書かれた時期を推量する上で、『開国史話』(加藤祐三著)に大変興味深い一文がある。要約して左に掲げる。
江戸の評判は、日本国内はもとより、外国でも高かったが、鎖国下の江戸では、世界の都市について比較の物差しを持つのは難しい。外国での江戸の評判を日本人に伝えたのが、ジョン万次郎である。彼は、嘉永四年(1851)に、十一年ぶりに沖縄に強行帰国するが、その後安政元年(1854)に幕臣となり、「江戸は、世界中で最も繁盛の所と諸国で評判が高く、彼の国の人々は見物したがっている。江戸、北京、ロンドンの三都は世界第一の繁盛の地である」と語っている。
江戸・京都・大坂を三都ということが彼の念頭にあり、それになぞらえて、江戸・北京・ロンドンの三都を世界第一の繁盛の地と表現したのであろう。
「海岸紀行」の最後に、「誠に世界三大都府之冠たるとかや、ありかたき事ともなり」と記されている。相馬某は、いつ、どこで世界三大都のことを知り得たのであろうか。
因みに「海岸紀行」跋文の末尾には、写本の時期と思われる「嘉永七甲寅年五月」の筆記がある。